KORANIKATARU

子らに語る時々日記

誰かの幸せのために力を内蔵し続ける


花冷えの週末、鍋納めには絶好のタイミングだと家内を満海に走らせた。
土曜はフグ、日曜はカニ、子らの食欲に見合う大振りの顔ぶれを家内が見繕う間、私は助手席に座って通りを眺める。

やせ細った老婆が車椅子を押して私の視界の中にゆっくりと入ってくる。
年格好からおそらく娘さんであろう、車椅子に座る中年の女性は重篤な様子だ。

心弾むような週末の解放感が一気に萎んでいく。

足元覚束ないほどに年老いた母が、回復の見込みない娘が乗る車椅子を押す。
その胸中など、間抜け面で日々過ごす私に忖度できるはずもない。
胸がきゅうと締め付けられ、ただただ厳粛な気持ちとなる。

笑ってばかりで済ませられる人生ではない。


12時間以上の勉強を連日こなす春期講習は二週間に及ぶ長丁場であったが、最後には笑顔で走り抜けた二男であった。
相当なハードワークであったはずだ。
本人曰く、神経張り詰めた。

波乗りするみたいに悠々、とはいかなかったが何とか乗り切った。

その適応力に、父として確かな手応えのようなものを感じる。
何と頼もしい。

当初父が設定したハードルは乗り越えた。
合格云々をまずは問うということではなく、自らを深め極めるために勉強するという意識で取り組めば結果はついてくるだろう。

「勉強する」という言葉で語るのではなく、「学に志す」と表記すべき段階に至ることになる。
より一層豊穣な世界が君を待ち構えている。


土曜夕刻、ラグビーの練習から戻った長男が、玄関先に荷物を放り葉桜の公園に向かって走る。
ハードな練習だったのだろう、足を引きずっているが、それでも公園で近所の友人らと元気いっぱい駆け回っている。

窓の向こう、その姿を目で追うが、無尽蔵のパワーそのものが煌々光って走り回っているかのようであり、父の目はますます細くなる。
日増しに火勢を増すそのエネルギーは一体どこから湧出してくるのだろう。

生命の何たるかが理解できるような気がしてくる。
弾け炸裂し増殖重ね続ける何か。


ゲストの従兄弟の少年含めて、家族みなで食卓を囲む。
家内が料理を切り分け給仕する先から皆がぱくつき大皿に盛られた刺し身はたちまち一掃され、具沢山のふぐ鍋も子らが小突いてあっという間に空となった。
次々平らげるので家内の手が休まることがない。

私はと言えばその様子を肴にし、赤ワインをゴクゴクと飲み干す。

子らが日々力を内蔵させ男っぷりを増していく。
この流れを途絶えさせてはならない。

責任と幸福は隣り合わせだ。


私自身もそして家内も歳を取っていく。
老い果てた時、誰にも迷惑かけない老後を過ごしたい。

国の福祉を頼みにしても当てが外れる可能性が小さくない。
何より先立つ物が必要だと考えるのが現実的だろう。

施設に入れば一人月30万はかかる。
夫婦二人だと60万。
二人で10年過ごすとすれば最低7200万円。

このように考えれば、我が身の始末だけでも相当に早い時期から考え算段すべきことだと正気に戻る。
子らを育て終え、その後静か安心して死んでいくのにも莫大なコストがかかるのである。


現在時点まで、私自身が何に貢献できたかを振り返ってみる。

社会に対し何らか有用な役割を果たせただろうか。
誰かの幸福に寄与できたであろうか。
友達の役に立てたであろうか。
親孝行はできただろうか。
子に最善のものを与えてこられただろうか。

全くの「足らず及ばず」と言うしかない。


私自身は、残された余生については自らの力の及ぶ範囲、折々の幸福を味わいつつも、勤勉に過ごそうと意気込んでいる。

世のため人のためとなれるかどうかは定かではない。
我が事こなすだけでも必死のパッチである。
私自身の「足らず及ばず」は大半が手付かず片付かないままかもしれない。

後は子らに託す。

君たちの中、内蔵され続けるその力は、身も蓋もないようなことに空費されるのではなく、誰かのために活かされることだろう。
「尽力」の集成が、君たちの幸福にも火を灯す。

今夜はカニ。
クソ真面目一家の決起の宴としよう。