KORANIKATARU

子らに語る時々日記

何のために学ぶのか

私よりも先に長男が目を覚まし支度をしている。
エンジンをかけ、Bluetooth接続でiPhoneの曲をシャフルで流す。
朝6時、自宅を出発。
新堀川沿いのセブン-イレブンで軽食とコーヒーを買う。
がら空きの道を進み鳴尾から高速に乗る。
しばらく無言で過ごす。

世には、人の気持ちが分からないという人間が少なからず存在している。
何のためらいもなく人を傷つけ平然としている。
誰かを傷つけたかもしれないと気付くこともない。
だから当然、人に共感することもない。
誰かがつらい思いをしていたり、悲しみにくれていても、その気持ちを汲み取ることができない。

そのような人間とはできれば関わりたくないが、社会生活を営む上で「お鉢が回ってくる」場合がある。
嫌な思いは避けられないかもしれないが、曲りなり対処するしかない。
そのような感情欠落人間を変えることはできない。

働きかけようにも、心に「取っ手」がないようなものである。
生まれながら備わっていないのか、まだ十分に発達していないのか、それは分からない。
どちらにせよ、相手はこちらの気持ちなど分からないし、分かろうともしない。
その必要性すら理解していない。

だから不幸にもそのような相手と関わる場合には、言葉交わすことを最小限にするよう工夫し、できるだけ距離を置き、嫌な思いをすることがあっても何も感じないよう意識的になって、何とかやり過ごすしかない。
紳士の流儀での対応、つまり出力を極小に抑えてあしらうという消極的対応を選択するのが最も賢明である。

そこまで話したところで、Phil Collins の Against All Odds が流れる。
大学生だった頃、友達と深夜横浜へドライブしたときの光景が鮮明に浮かぶ。
当時の話を織り交ぜ、曲について説明する。
いい曲やね、と長男が言う。

空は青く、朝の太陽が山の緑を色濃く照らす。

惻隠の心あっての人間である、と話を戻す。
人の気持ちが分からないのであれば、その人間が勉強したって一体何になるだろう。
何を学ぼうが無益だ。
周囲の手を焼かせる度合いが深刻になっていくだけだろう。

人の気持ちが分からない人間に、一体どのような歴史観や世界観や人間観が備わるか、想像すれば薄ら寒くならないか。

世界は人の心でできている。
地上全部が心で覆われ、学校で学ぶ歴史もその行間には人の心がせつないほどにぎっしりと詰まっている。
家族や友人といった身近なところから、さらにその家族や友人らへと、心は地続きで果てしなく果てしなく繋がっているのである。

畏れを持ってそれを君は知らねばならない。
誰かを傷つければその痛みはその家族へと伝播していく、誰かを喜ばせればその幸福が暖流のように広がっていく、そのようなメカニズムを胸に留めることである。
人の心を思ってそれを分かろうと焦点を合わし、人の心に作用することのその先の先の余波まで見渡そうとしなければならない。

そして、現在だけでなく過去や未来の心まで視野に入れなければならない。
この地上にだけ心があるのではない。
生まれては消えていった無数の心を君は思い浮かべようとすることができる。

例えば私たちの先祖はもはやこの世に存在しないが、当時を思い、そこで何を思っていたのだろうと想像することはできる。
時間を逆から見れば、私たちもいつかはそのように、先々の誰かにその心を思い出される存在となる。
順々に、そのようにして心をバトンで運んでいくのである。

人の心に焦点を当てるのであれば、世界がどのような在り方をし、歴史がどのように織りなされてきたのか、厳粛な気持ちで見つめることができるはずだ。
数多くの心の軌跡を思ってそこを辿れば、大きな流れに接続できる、自らのささやかな役割ともいうべきものも見えてくるだろう。

学ぶ意味はそこにある。
たとえ微力であれ、その大きな流れに正の作用がなせるなら幸いだ。
学んで得た力と心によって、世に関わり、君と会えて良かった、君がいて助かったと誰かに思ってもらえることがあれば、親としてそれ以上に嬉しいことはない。

いま、君はまさに学びの過程にあり、確かな人間関係のなか繰り広げられる心の交流が君を育ててくれている。
深い感謝の念をもって、そのことを理解すべきだろう。
そして、君は自由だ。
とことん自らを磨き、自らの役割、使命を果たすべく好きなだけ邁進すればいいのである。

君がいまの私と同じ歳になるのは30年後。
うまくすれば、そのとき私は74歳になっている。
ずいぶんと長い時間に思うかもしれないが、30年はあっという間である。
私もついこの間まで中学生だったのだ。

いつか、例えばこのとき聞いた曲を耳にしたときなど、朝の光や山の鮮やかな緑とともにこの日の話をつい昨日のことのように思い出すことがあるだろう。
時折そのようにして父の心を振り返ってくれることがあるのであれば、私も何らかの役割を果たせたことになる。