KORANIKATARU

子らに語る時々日記

君たちが最愛の人へと真っ直ぐ導かれますように


朝日新聞の声の欄だっただろうか。
ある女性が富士山頂への途上、一休みしていた。
そこに自転車をかついだ青年が現れる。
道々話しながら山頂に向かう。

青年は岡山の大学生で自転車で日本縦断中であり富士山も五合目までは自転車で登ってきたという。
何とバカなやつがいるのだろう、女性はそう思った。

その青年が夫となった。
サイクリングかついで颯爽と現れた当時の体型はいまや見る影もない。

いい話だと印象に残った。


その昔、プロポーズ大作戦というテレビ番組があった。

忘れられない人がいる、また会いたい、視聴者の求めに応じ、意中の相手を桂きん枝が探しだす。
スタジオで対面し思いの丈を告白する。

この番組がフィクションであったのかノンフィクションであったのかは知らない。
私は子供ながら、桂きん枝が相手を探し出す過程に一喜一憂し、さあいよいよ告白という場面においては照れて火照って手に汗握った。

子らにもぜひ見せたいとは思うけれど、youtubeをのぞいてもそのエッセンスに触れ得るコンテンツはもはや見当たらない。

だから日記に書いておこう。
また会いたいと思うようになる人というのが存在していて、ぼーとしているともう二度と会えなくなる。
それはとても残念なことである。


このところアキ・カウリスマキの映画を立て続け見ている。

人が「いる」ということの温かみを知ることができる。
映画という虚構を通じて、我々は我々自身が切に欲する何かについて目を見開かされていく。

友情らしきものが描かれるのではない。
愛情がそれらしく描かれるのでもない。

人というものからごく自然とにじみ出る、情感のようなものが映像として捉えられている。

そこに登場する人物らの物言わぬ交流の確からしさに、古き良き記憶を呼び覚まされるような思いとなる。

私たちは、そのようであろうとして、長い時間を経てきたはずだった。
しかし、いつの頃からなのであろうか、私たちは、人と一緒にいるということの意味を見失いつつあるようだ。


先日の朝日新聞の声の欄に、74歳の男性の投書が掲載されていた。

44歳の息子と39歳の娘がまだ結婚できない。
長時間労働を余儀なくされるのに驚くほどの薄給だ。

息子は結婚相談所を二度訪れたが収入を話すと渋い顔をされたという。
二人の行く末を案じて妻は時折涙を流す。

私はこの投書を切り取り子らに読ませた。

日本という国のお国柄なのだろうか、国に忍び寄る悪しき兆候については真正面から捉えられることがなく、深刻な話であってもまるで過渡的な現象であり、そのうち何とかなるというニュアンスで語られてしまう。

年金制度は破綻しているのに、破綻したとは言われず、作り話みたいな未来図が描かれる。
地方は疲弊し続ける。
若者の成長の機会は先細るばかり。
ますます事態は悪化の一途を辿っていても、施策の失敗について明確にされることはなく、誤魔化し取り繕いながら、まるで大したことでもないように静観という放置が続く。

大本営発表の当時と何ら変わらない姿勢で事実は歪曲されたまま、ずるずると問題の水位が上がって呼吸も苦しいアップアップの度合いが増していく。


バブルの春の後遺症なのだろうか、当たり前に大切な何か、根本的に重視すべき何かについての知覚が閉ざされたまま、あれよあれよ、抜き差しならぬほどに社会は世知辛く行き詰まってしまった。

水や空気が大事なように、全く同じそのレベルで、人にとっては人こそが最重要であろう。

君たちに伝えたいことは至ってシンプルである。

お互いを大切に思い合うような人間関係こそが最重要だろう。

君の財布の中身を大事にするような、そんな人間関係だったら、君自身は大切にされないかもしれない。

例えば、朝や夕、鳥のさえずりに耳傾けるだけでも、人は幸福を感じる。

そのような時間を一緒に過ごし喜びを共有できる相手がいるなら至福であろう。
最愛の人へと君たちがまっすぐ導かれますように、父は祈っておくことにする。