KORANIKATARU

子らに語る時々日記

中学受験はそりゃますます難化する。


飲み会で友人らと集まれば子供の年齢が近いこともあって中学受験の情報交換となる。

いよいよ2学期となり、どこも主要どころの塾は万全の体制整え来たるべき入試の日に備えピッチを上げ始めたようである。

なかでも最大手の横綱浜が今年は灘だけでなく星光についても本気で取り組むようだ。

灘用の勉強をしていれば星光にも対応できるといったスタンスは一切なく、例年よりも前倒しで特化したカリキュラムを始動させているという。

これまで一貫して星光であれば能開という構図が続いていたが今回は変動するのかもしれない。

そうなれば関西において耳目集める学校についてはすべて浜が総ナメとなり、浜の一強時代は当分揺らがないといったことになるのだろう。

もちろんその他、浜だけではなく実績に裏打ちされた名だたる塾はどこも総力戦の様相だ。

激しいデッドヒートが繰り広げられ難関とされる学校は、更に著しく難化することになる。


だから当然、難関中の難関の域にある灘にいたっては、天井突き抜けた上空レベルでの戦い、いわば空中戦となる。

各塾の図抜けた猛者がその優劣を競う。
関西中のめちゃくちゃに賢い連中から順に席が埋まっていく。
一発勝負で競ってここに潜り込むとなれば、学力だけの話ではないだろう。
合格への確信がピクリともゆらがない相当な度胸が必要だ。

これはもう凄まじい。

もちろん、私達酒飲み仲間については、身の丈合えば大満足。
共通見解は、中学入試はサッカーの一次リーグの初戦のようなもの。
勝たずともいい。
引き分けで十分。

決勝リーグに入ったときに独自の勝利を得らればそれでいい。
おそらくは35歳の頃、ひとかどのええ男になっていることがとても大事であり、そうであれば何とかその先もひとかどを維持することができるだろう。


現六年生からは、新しい大学入試制度に直面することになる。
意欲とやらを評価するというのであるから、衆目の予想通り美辞麗句だけの空虚な改革となるのであろう。

中学の選択にあたっては、大学入試の評価軸の大変革に対して適切で迅速、柔軟な対応ができる学校であるかどうかという視点も欠かせない。

見渡せばそんな機敏さ有する学校は数少ない。

塾が私企業として切磋琢磨し洗練の度を増すのとは好対照、たいていの学校は、旧態依然をちんたらバトンリレーしてばかりいるように映る。

塾で鍛えられてもそこで待ち受けるのが「停滞」と「反復」の世界であるならば、中学高校になっても依然として塾が必要となるのは当たり前の道理だ。
中学高校になっても大半は塾を道場としてデットヒートが延長されていく。


そして、そのような小さな輪のなかで繰り広げられる熾烈な世界の一方で、社会においては、「貧困の連鎖」といったトピックが取りざたされる。

子供にお金をかけられない世帯が増えている。
ちょっとした程度の教育を受けられないばかりに、親の貧しさを子が受け継ぐことになる。

おまけに、そのような境遇の者に対し現在の政権は状況改善のための積極的な手を打つ素振りもない。

貧するものはますます貧する。

弱者には何とか自己責任で持ちこたえてもらい、強者を優遇しそのための環境づくりを優先する。

差し引きすれば、強者のお裾分けが回って弱者も多少は恩恵を享受できるに違いない。
あらゆる政策がそのようなメッセージを発しているように見える。


ニーアル・ファーガソンは言った。
文明は、人種や地域が創るのではなく制度が作り出す。

その制度の根幹となるのが「競争」「科学」「財産権」「医学」「消費」「勤勉性」という6つのアプリだ。

文明観という巨大な物差しを教育の在り方にあてはめて考えるのも的外れなことかもしれないが、教育において競争に参加できず勤勉性を発揮する機会に恵まれない一群があるということは国家の内部に非文明を胚胎させるようなものなのではないだろうか。

次世代の子どもたちの学ぶ機会が貧困によって奪われそれが見て見ぬふりされるというのは、巡り巡って国家の損失となるといった次元の話では済まず、危機的な事態なのだと捉えられるべきなのであろう。

格差が慢性化すれば、おそらくは自然現象のように反動的に平均回帰への動きがくすぶり始めることになる。

強者が富むのは当たり前にしても、強者だけが富み続けるといういびつな不平等は、穏健な仕方では解決しないであろう。

ヘイトスピーチに見られるようにすでにお門違いな「毒まみれの害意」のようなものがそこかしこから立ち昇りこの国に漂い始めている。
これら怨嗟は奔出のはけ口を求めずにはいられないだろう。


「競争心と勤勉性」をトレーニングできる点で、塾が提供するシステムはもっと評価されてもいいことだろう。

希望者全員がこのようなシステムのトレーニングを大学卒業まで享受できるのであれば、確率的に考えて空恐ろしい人材が数多出現するに違いない。

学校教育において意欲やら創造性やらといった曖昧なものに活路見出すのではなく、具体的で公平なフィールドのもと「競争心と勤勉性」を徹底的に鍛えるという在り方を基本スタンスに採る方が子供たちにとっても糧になり国にとっても良いことなのではないだろうか。