休日の夜、一人夕飯を済まそうと満海寿司の暖簾をくぐった。持ち帰り以外でその店を訪れるのは初めてのことであった。カウンターに腰掛け、挨拶代わりに「中トロとタコ、それと瓶ビールね」と板前さんに声をかける。
返ってきた言葉は「順番守って注文してよ」。
寿司職人特有の無骨無愛想といったトーンではなく、イライラ募って腹が立って仕方ないという声音であった。
いつもの私であれば何やそれと文句の一つでもつけ席を立つところであるが、寿司食べたいのでぐっとこらえた。
はてさて、順番である。
他の客がどのように注文するのか、カウンターにぽつんと座りまずは観察しなければならなかった。
しかし注文するための順番といったシステムや秩序など一切見いだせない。
途方に暮れていると、バイトの女の子が脇にやってきて注文を聞いてくれる。
なるほど、この寿司屋はデニーズみたいに注文伺いがあって、その際にまとめて頼むようになっているのだ。バイトがやってくるのをいちいち待つのもじれったい、一時にあれこれ一気に頼むことにした。
私の右側にはカップルがいた。話の内容から男子はメーカー勤務のサラリーマンで女子は近い将来の花嫁さんといった様子がうかがえる。
その彼が、板前さんに言う。「すいません」、、、板前さんの機嫌を損ねぬよう最大限の配慮と沈痛な思いがこめられている。
彼は、ヒラメや大トロやウニや、あれやこれや値の張るネタを頼む度に、謝らねばならなかった。「すいません、ヒラメ、いいですか」、「ほんとにすいません、大トロ」といった風に、平謝りで寿司を乞うのだ。
見ていて哀れに思えてきた。何が悲しくて、日曜の夜のひととき、彼女を前に、へいこら謝って寿司を食べねばならぬのだ。確かに安くてままうまいが、平謝りするまでの値打ちある寿司だとはとても思えない。
私は謝りたくはなかった。
「いま、注文してもよろしいでしょうか」、これほどまで礼にかなった適切な言葉遣いはないであろう。だてに西宮で暮らしているわけではない。
塩イカを頼む際も、ハイボールを注文する際も、「いま、注文してもよろしいでしょうか」と丁寧な言葉を発することに私は徹したのであった。
板前さんのうちにも道理弁える人間がいて、このレベルの丁寧さで呼応してくれるようになった。
ここで快適に過ごすための自分なりの秩序を見いだすことができた。
粗暴な場においては、上品に振る舞うことで活路開くこともある。
短気を起こしてすぐに席を立っていたらこのような学びを得る事もなかったであろう。
ほろ酔いで店を出る。
阪神電車と阪神高速、二本の巨大な高架が上空を塞ぐ道を伝って駅に向かう。午前中なら鳩の群れが大挙入り乱れる鳩ポッポ通りも日が落ちれば主役は飲み客に取って代わられる。そろそろお暇するのにいい頃合いであった。
二度と訪れることはない。