KORANIKATARU

子らに語る時々日記

毒は針小棒大に作用する。


台風18号が接近中とあって時折風が強くそして小雨が舞う。
それでもまだこの辺りは台風の制圧下にはほど遠く、ほとんどの時間、傘もささず悠々と歩くことができる。
ウォーキングするのに何も困ることがない。

歩けば昔のあれやこれやが浮かんでは消えるのであるが、晴れの日とは異なり風雨混ざる曇天だからだろうか、不快な記憶もまにまに蘇ってくる。遠い遠い昔の出来事のおぼろな輪郭が視界をよぎってまたどこかへ去っていく。


現在長男を指導してくれているラグビーコーチの一人は、長男がはじめてラグビーを体験したときに出会った方である。
たいへん人当たり良く、子供たちにラグビーの持つ素晴らしさを明るく楽しく伝えようとする姿に親としてたいへん好感が持てた。

だから当時つかみはOKだった。
まずは何でも嫌がる長男であったがスムーズにラグビーに入っていけることとなった。

ところが、二男の学年で一悶着があった。
私たちの心得が悪かったのか挨拶が足りなかったのか、家内がチームのママらに囲まれ吊し上げられた。
ボスママにヤキを入れられたようなものであり、百歩譲ってこちらに非があるにしても無礼にもほどがある、まるでサル山のパワーゲームのような話であった。

まだ日は浅かったが、そのチームを離れることにした。
何だか分からないような誰かに媚びてご機嫌伺うような暇などなかった。

やめる挨拶をしたとき、長男が慕うそのコーチが言ってくれた。
ラグビーをやめないで。
ラグビーは本当に素晴らしいので、やめないで下さい。

それからどのような巡り合わせか、長男はラグビーをやめず、またそのコーチと再会できることとなった。

別れがあっても良き縁には必ず続きがある、というのは本当のことであった。


移った先のチームはまるで別の国であった。
名門チームなのでド素人など村八分になるのではという懸念もあったが、取り越し苦労に過ぎなかった。

どこの馬の骨とも知れぬラグビー初心者家族に、ほんとうによくしてくれた。
下卑たパワーゲームを自制するような見識が行き渡っているのだろう、練習風景を囲む父兄の雰囲気がとても良かった。

初回から愛想よく声をかけてくれるコーチがいてそれで子らはどれだけ救われただろう。

だからといって優しいだけでなく、骨身に沁みる程度ではない、骨身を裂いて砕くというほどの熱い指導もあった。
乳臭い自己愛など気化して跡形もなくなるほどの「活性」のなか放り込まれた経験は子らにとって生涯に渡る貴重な糧となったはずである。

しかし、いくら素晴らしくても中には変わった感じの方も混ざる。
ゼロであるはずがない。
確率論的にはやむを得ないことである。


当時は選択の余地もなく土日問わず仕事に追われ、家内にも手伝ってもらうことが少なくなかった。
だからラグビーをさせると決めたはいいが、その送迎の負担は軽いものではなかった。
もちろん私たちだけでなく多くの人がそんな状況をやりくりして子をラグビーに通わせていたのだろうが、あのときは本当に背に腹は変えられないというほどに忙しかった。

だから家内が学年のお世話係に指名された時には、不安ばかりが頭をぐるぐる巡った。
迷惑かけるのではないだろうか。
真剣にラグビーに取り組んでる皆さんの足を引っ張ることになるのではないか。
だからといってラグビーと仕事が重なった際にラグビー優先というのも難しかった。

それで経緯をたどり、元のお世話係に家内が相談したのだったが、肝冷えるような言葉が返って来た。
不満があるならお世話係の選任が白紙撤回になったと15分後に学年全員に一斉メールを送る、というのだ。
きっぱり突き放すようにそう言われただけであった。
何か事情を話すとかそんな余地は一切なかった。

このときの空おろそしいようなゾクリ感というのは後にも先にも経験したことがない。

白紙撤回の一斉メールなどされれば、また全員に集まってもらって話し合いをやり直さなければならなくなる。
そうなれば「つべこべ言った」家内は「ちゃぶ台ひっくり返した」ようなものであり立場窮することになるのは明白であった。

一人一人を回って説明できるなら汲んでもらえるかもしれない事情であっても一斉メールであれば一言挟むための余地もない。

将棋で言えば詰んだ状態である。

そして私たちはお世話係となり、無言の引き継ぎを受けることとなった。

私たちに従順さが欠けていたのだろうか、私たちが手を焼かせたからであろうか、引き継ぎにあたっては前任者から口頭での説明はほとんどなく、仏頂面で「はあ?」みたいな顔をされただけだった。
子のため、チームのためと耐え難きを耐え笑顔さえ浮かべて備品を受け取った。
このときの空おろそしいようなゾクリ感というのも後にも先にも経験したことがない。

しかし蓋を開けてみれば、もう一人のお世話係りがほんとうに良い方であっただけでなく、こちらが心苦しく思うほど、他の方々も献身的にサポートしてくれた。
どれだけ助けられたことだろう。
いくら感謝してもし足りない話であった。

ほとんどの人は良き人なのだ、と私たちは学んだのだった。


そしてその年の県大会。強豪伊丹を破って優勝することができた。
そもそもを振り返ればレギュラーになれるなど思ってもいなかったし、優勝するなんて夢のまた夢であった。
第一、誰も伊丹に勝てるなんて信じていなかった。

だからその優勝は感慨ひとしおであった。
小学生とは言え、各自にとっては金字塔とも言える偉業であった。

しかしほどなく、度肝を抜かれるような愚かしさに遭遇することになる。

決勝戦の記念DVDは存在するが、入手できないということを知ったのであった。

毎回グランド袖で試合を撮影している御方がいた。
突き詰めればチーム公認なのか非公認なのかよく分からない方であったが、公認のようなものであると皆は考えていたのではないだろうか。

その人が優勝を祝してデコレーションつけた記念DVDを作成したのだった。

それがコーチ筋や古株筋には配られる。
ところが、何人かの選手はそのDVDの存在すら知らないままであった。

入手した人から噂を聞いてその存在を知る。

記念すべき晴れ姿がDVDには収まっている。
ダビングしてと頼むのは人情だろう。

しかし、DVDには「複製厳禁」と大々的に銘打ってあるのだった。
そこに映る当の選手ら父兄までもがその御札に拘束され、DVDは一部だけに行き渡っただけで事実上門外不出となったのであった。

一人の母親が、DVD譲ってもらえませんか、と思い切って当の御方に頼んでみた。
「いまさら何ですか。とうに締め切りを過ぎてますよ」とにべもない返答であったという。
締め切り? そんな話を初めて耳にした。
自分に落ち度があったのか、とその母親は諦めるしかなかった。

奇妙な理屈をこねまわす風変わりな人であったので、もとから話しかける人などあまりいなかったようであるが、このやりとりが広まって、風変わりな人から、ちょっとおかしいのかもしれないと、警戒レベルが格上げとなったそうである。

おそらく御方本人においては自分なり理屈の通った考えをしているのだろう。
欲しければ筋を通し時期を逸せず頼むのが常識であり、人の好意を前提にするなど甘えるにもほどがある、といったロジックなのだろう。

有象無象飛び交う俗世においては、的はずれな文脈で単細胞な正論もどきを繰り出す輩が絶えることがない。

例えば、私の仲間内を見渡せば、自分が決勝戦を公的な立場でビデオ撮影していてそれをDVDに収め、出場した子供たちにとってかけがえのない時の時ともいうべきその結晶を、取り入る先にだけ選択的に進呈し、眼中にない相手に対しては知らぬ存ぜぬ決め込み渡さない、ということをする人間は皆無だ。(サルにならそんなモンキーな奴はいるかもしれない。)
断言できる。


天気荒れる予兆があちこちに現れ灰色の度合いを増す町中を、普段思い返すこともない不快な話が浮かぶのにまかせウォーキングする。

そして、気づく。
もうこれ以上には、出てこない。

不快な話など湖面に一瞬浮かぶ鳥の糞みたいなもの。

放っておけばたちまち浄化され跡形もなくなる。

糞より恵の雨に満ちた人生だ。
まもなく雨が降る。

糞の居場所はもはやない。