KORANIKATARU

子らに語る時々日記

「北京ヴァイオリン」で思い知らされる音楽の力


のどかで美しい田舎町の光景から映画は始まる。
水路と路地が町を縦横にめぐり、そこで人々が暮らす。
物語がそこから立ち昇る。

少年チュンが分娩の場に呼ばれる。
難産のようだ。
景気付けに一曲演奏するよう請われ、チュンがヴァイオリンを弾く。

チュンのヴァイオリンのメロディと産声が重なって、観る者は映画の世界に出だしからぐいと引き込まれていくことになる。

そして映画を観終えた後になって、この象徴的な序盤のシーンを誰もが深い感慨をもって反芻することになる。


北京でのコンクール出場というまたとないチャンスがチュンに巡ってくる。
父はチュンの成功を夢見て男手ひとつですべてを捧げてきた。
全財産をニット帽に潜ませ、父子は北京へ旅だった。

朝靄のなか父子を乗せて小舟が発つシーンは際立って美しい。

しかし北京で立ちはだかった現実の壁は分厚かった。
才能に恵まれていようがどうであろうが、ものを言うのは後ろ盾の有無である。
群を抜く腕前のチュンであったが5位に終わる。

平凡な結果に終わるが、チュンの運命を切り開くためなら何だって厭わない父は諦めない。
学校の入学を打診し音楽の教師を探す。

一人の音楽教師に狙いを定め頼み込む。
その音楽教師チアンはどう見ても風采の上がらない、落ちぶれた音楽家にしか見えない。

チアンはしぶしぶレッスンを引き受けることにする。
気は進まないが、チュンに惹かれるものを感じたのは確かなことだった。

チュンとチアンの師弟としての交流が始まる。
当初はチアンが飼う捨て猫の世話を手伝ったり掃除したりと、とても音楽のレッスンとは思えないようなパッとしないやりとりが続く。

しかしチュンの存在が、師であるチアンを徐々に変えていく。
身だしなみが整い、荒んだ目つきが穏やかになっていった。

師弟としての最後のレッスンの場面、チュンの演奏を満足気に見届けるチアンの姿はどこまでも気高い。
あまりに気高すぎて、涙をさそう。

悲しいから泣くのではなく、気高さでも人は泣くのである。

チアンは快く身を引いたのだった。
自分には音楽の世界で何ら影響力がない。
チュンは、ユイ教授に託すのが正しい。
愛弟子チュンを見届けるチアンの優しい眼差しが思いの丈を全て物語っている。


チュンのヴァイオリンによって、様々な人が良き変化を遂げていく。
劇的に変わるのではなく、少しずつ人間としての心を取り戻していくといった変化だ。

現代中国の拝金主義の象徴であるかのようなリリがチュンのために奔走したり、手編みのセーターづくりを手伝ったりする。
ヴァイオリンのライバルであったリンも、自らの権威付けのために美談こしらえチュンを利用しようとしたユイ教授も、最後にはチュンによって人間性を回復していくことになったのではないだろうか。

映画のなか、人の心が潤っていく方向性を確信させる何気ない描写が随所に散りばめられている。


そして、ラストシーンは圧巻だ。

チュンが北京駅へ走る。
そのシーンと、チュンと父が初めて出会った北京駅でのモノクロのシーンが交互に流れる。

父が現れ、そこにはもちろんチアンもリリもいる。
ヴァイオリンが彼らを結びつけ、彼らを変えた。

音楽の役割は、本来そのようなものであったはずなのだ。

本当の意味での音楽、人の心が通った音楽が、コンクール会場ではなく北京駅の群衆のなかで奏でられる。

号泣避けられない。
素晴らしい映画である。