KORANIKATARU

子らに語る時々日記

十把一絡げの憎悪の不毛


対峙した相手が、例えば精悍な面構えで、着こなしもきちんとして、知性ある雰囲気を醸し、尚且、聴き惚れるような低音でもって理路整然と持論を展開したのであれば、手に汗握る展開というのもあり得たのかもしれない。

しかし、いずれの点においても見劣りして見え、しかもいきなり砂場で癇癪起こす問題児のような振る舞いを見せたのであるから、拍子抜けして苦笑する他なかった。

もし万一、その主張が説得力を有し、一理も二理もあるように見え、反論しがたいだけでなく私自身の回路にすんなり馴染んでしまえばどうすればいいのだ、私も幾分かは感化されてしまうのかという心配は数秒で杞憂に終わった。

話し合う余地などないこと、ひとつの意見として一定の理解を示す必要もないことは、即座に明白であった。

一体全体、かような相手を前に、何を聞き、何に頷き、または何を諭せばいいというのだろう。

橋下市長が闘牛士よろしく巧みに「赤ふん」ちらつかせ、相手の奇異奇っ怪さを炙りだしたお手並みは見事なものであった。

相手に潜む本質が透けて見えたのであるから、多少下品であっても橋下市長の果たした役割は評価されてしかるべきだろう。


論点をフォーカスし論理的に語るのではなく、朝鮮人憎しといった大括りで感情的な主張を連呼する彼らのやり方は、何らかの問題解決に向けての活動というより、要は公の場での鬱憤晴らしのようにしか見えない。

荒療治をもってしても解決しなければならない社会的な切迫性も、彼らが目指す解決によってもたらされる社会的な利益も、何も見えてこない。

よりよい社会の実現のための政治活動というより、単に私怨を発散させているだけと見えても仕方ないだろう。

第一、声を荒らげて日本から出て行けと示威的に迫らなければならない朝鮮人・韓国人がいまどこにいるのだろう。

良きにつけ悪しきにつけ存在感を放ってきた往年の在日一世や二世はいまでは鬼籍に入りあるいは年老い、三世以降などは日本人が生まれながら日本人であるように日本人のようなものであり、在日の社会などゆるやかに解体していっているのが実情ではないだろうか。

全体として徐々に濃度を薄めていく存在に牙むく姿勢が理解しがたい。

往年の、血気盛んな一世や二世らが健在の際にはとても言えなかったことを、今ようやく言えるようになったという積年の怨念のようなものなのだろうか。


排斥運動に名を連ねる人が1万人はいるという。

先日の朝日新聞の耕論によれば、活動家には大卒も多く、京大卒や東工大卒もいて普通の人たちだという。

普通の人たちが、朝鮮人はゴキブリだ、死ね、殺せ、ガス室に叩きこめ、自殺しろ、半島へ帰れと徒党組んで叫ぶのであれば、これはもう普通ではない。

例えば鶴橋でそれら普通の人達が暇なのか行くところもないのか寄り集まって朝鮮人をゴキブリ呼ばわりする同じ時、日本社会のなか、事業を興しあるいは学業を為した在日たちが勤勉に働き地域社会ひいては日本社会に貢献しているという現実もある。
それでも、誰か一人でも「ゴキブリ」であれば皆ひっくるめて「ゴキブリ」となるのだろうか。

例外ひとつだけで不成立となる似非論理は、命脈保つためその例外に目をつむらざるを得ず、目をつむるためにもブルドーザーみたいに粗雑な思考を加速させていく。
そこには素性たどれば悲しい感情の、押しとどめようのない集積と暴発があるだけだ。

それが酷く醜悪な結果、自分の首をも締める無残な末路をもたらすだけの悪魔的思考だと思い当たらない人がまだまだ日本には多いのだろうか。