KORANIKATARU

子らに語る時々日記

自らのカラーに喜んで馴染む


仕事場近くの居酒屋で一人飯。
早朝から精出しちょっとばかり手強い一日を乗り切った。

懐具合を気にせずぶらり飲み屋で飯食えるようになる、それが学生時代の夢だった。
ワンルームの床に缶ビールとつまみを置いて、一人わびしく14インチのテレビ見ながら、いつかはきっとと夢想した。
20年以上の昔のことだが、それがついこの間のことのように思える。

居酒屋に地元の常連客が集まってくる。
皆が皆、顔見知りといった空間のなか、私は誰とも話さず未知の飛来物体に徹し続ける。

おそらくあと10年もすれば、33期の連中は私を含めもっと時間を持て余すようになる。
星光については「期は血よりも濃い」というのは本当で、おそらく停留する飲み屋がいずれ定まり、そこでしょっちゅう顔合わす、というようなことになっていくだろう。

いま随時開催されている「誰かの行きつけで飲む会」は、来たるべきその時期に向けての物件探しのようなものであろう。


歩いて帰途につく。
頭を撫でる風がゾクリと冷たい。
そろそろニット帽が必要だ。

夜景の淀川大橋を渡る。
川上から海に向けて強く風が吹き、淀川の水面が蹴散らされたかのような紋様を描く。
風の一団がドタドタと走り去っていくかのようである。

日中だと意識に上ることはなかったが、淀川大橋を間に挟んで両対岸は全く異なる景色を見せている。

東側は巨大なビルが林立し、その光が巨大な塊となって闇のなか膨れ上がっている。
一方西側は、まばらに灯る程度、光はなきに等しい。

50mプール14個分、700mの川幅が明と暗を明瞭に峻別している。
騒々しいような明の側に背を向け、静かな暗の方へと歩を進めていく。


マルコム・グラッドウェルの「逆転」のなかにあった「相対的剥奪」という言葉を思い出す。

大きな池の小魚と小さな池の大魚を比較し、大きな池がいつだっていいわけではないという文脈のなかで用いられていた。
なじみの慣用句で言えば、鶏口となるも牛後となるなかれ、がニュアンスとして近い。

相対的な比較のなかで、人は自己を評価し、セルフイメージを形成し、比較を通じて、満足を覚え不遇を嘆く。
そしてその自己評価が未来の扉の開閉に大きく影響を及ぼすことになる。

例えば、あまりにハイレベルな学校に入れば自分がNGな存在に思え前途に消極的になり、そこそこの学校であれば自分がとってもOKな存在と確信でき意気揚々未来を切り拓く、といったようなこと、金持ちの集団に身を置けば自分がみすぼらしく思え不幸感拭えず、そこそこの世界と交われば自分がゴージャスに感じ幸福に満ちる、といったようなことである。

所属する場で評価が交換され、それが自己評価のゲインとロスを生んでいく。

露骨な世界では、トランプの手札を振り出し合うみたいな発信で、勝ち負けが競われていく。
いわゆる、リア充発信については、そのようなエネルギー争奪の一環と見れば分かりやすい話だろう。


種類によって岩石にも明度があるように、人の明度も人それぞれ。
私については、ピカピカ希求は無きに等しくどちらかと言えばくすんだ鉱物程度でいるのが居心地いい。

空腹は飯食えば収まるが、ピカピカ希求は果てしない。
朱に交わっても赤くならないこともあるし、自ら塗っても思った色が乗らないこともある。
そうと知って、自らの色合いと明度が馴染む程度を根城とするのが、健やか元気に過ごすための初歩的な心得と言えるだろう。