KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ヘイト話法が暗示する世知辛い雲行き


ヘイトスピーチに見られるような「破壊的言説」が表沙汰となってきたのは2000年代頃からであったと言われる。

それまでは密かに語られることはあったとしても、あのような薄ら寒い言葉が大手振って闊歩するようなことはなかった。

どれだけ強面の街宣車であっても、あそこまで身も蓋もないようなフレーズを連呼することなどなかったはずである。

かつては、たとえヘイト性ある罵詈雑言が発せられたとしても、ユーモアやペーソスといった知性の片鱗がまだ宿っていたように思う。

いまや、ただただ、破壊的。
普通の顔した人々が、獣臭漂うほどの醜悪な言葉を無闇矢鱈わし掴みにして投げつける。

平穏に暮らす日々、そのような情景に触れると、何かが狂っていっているとしか思えない。


モンスターペアレンツやクレイジークレーマーなどが取り沙汰された時期と軌を一つにしているとも思える。

昭和が終わって日本人が変質し始めた、と捉えるべきことなのかもしれない。

拡大する経済格差、ネットの普及、解体する地域社会、核家族化、様々な要素があいまって、いま、時代が社会に暗い影を落としている、その影からの反作用として激しい恨みの声が鳴り響いている、とどのつまりはそのようなことなのだろうか。


「ヘイト話法」とでも言うべき言葉遣いは、かつては、その筋、それら業界の人間の専売特許のようなものであった。

因縁つけてなんぼの世界で生き抜くにあたっては、日頃から、頭の中であれやこれやシミュレーションし、因縁の腕を磨くシャドーボクシングが欠かせない。
いつだって頭の中は因縁が渦巻いている。

だから事に際して、反射神経的に、声が出る。

虚を突く言い回しでカサにかかり、度肝抜くような非論理をものともせず声を張り上げ、おおよそ非常識な屁理屈で揚げ足を取り続け、一方的な主張を繰り広げていく。

その場で圧倒できれば、それで十分。
相手にどう思われようが関係ない。

一点集中で難癖つけてくる物騒な世界と無縁の素人は何の準備もできてないので、いきなりフルテンションでまくしたてられると、思考停止となるのがオチである。

なにしろ家で女房にどやされてぐうの音も出ない男子が依然として大半を占める国民性である。
呆気に取られ目が点になったまま、下手すればうんうんうなづき、相手の言うまま、あれよあれよ、まともな弁識を失って、カタに嵌められ、謝る必要もないのに謝罪したり土下座したり、卑屈に笑って金を渡したりしてしまう。

人目のつかない街の裏通りでしかお目にかかれなかったそんな話法が、公の場で国旗さえ振られこれみよがし姿を現すようになり、そして、テレビでも流れるようになってしまった。


相手への配慮が先に来るような日本語の奥ゆかしさと人的柔らかさは失われ、日本の亜熱帯化と関係あるのか、高飛車で高圧的、ねっとり蒸し暑いような言葉遣いが市民権を得てそれが常態となっていく。

言葉遣いが人を形作る。

老人や妊婦が席を譲られず、子を乗せたバギーが電車で疎まれ、泣く子が毛嫌いされ舌打ちされるだけでなく、身障者は足蹴にされ、外国人が「害」国人扱いされる。

これが21世紀の日本の社会ということなのだろうか。

いまのところはまだひっそりと生き長らえている良き社会が、ますます肩身狭くなっていく様相だと思わざるをえない。