KORANIKATARU

子らに語る時々日記

「サンデーモーニング」見て朝なのに考え込まされた。


日曜朝、いつものように関口宏の「サンデーモーニング」を流しながら軽作業に勤しんでいた。

先日の橋下市長とレイシストとの面談の様子が流れたので、手を止め目をやった。

おばちゃんの党の谷口某という、見るからに大阪のおばちゃんっぽいガタイのコメンテーターが、苦々しい顔してその面談について評する。

「この言葉遣い、子供が真似するんですよね、おまえって」

いかにもそれらしいような、あってもおかしくなさそうだが、地元感覚ではありえない、小ウソの類に違いない作り話だと、痛ましいような気持ちとなってしまった。

ウソっぽい話って、そうと分かってしまうのである。

日曜晴天の朝、ありそでなさそなウソっぽい話を、庶民感覚気取りのおばさんが平気な顔して語るその図を見るのが息苦しくて耐えられずチャンネルを変えた。

大阪ローカルのテレビであれば、リンゴやモモコまたは小籔がそれウソやろと笑いでまぶして痛ましさをちょちょいと料理するのであろうが、関口宏はじめ真面目な面々は二の句をつげずただ黙ったままであったので、視聴した者にはまるで後味の悪さが刻印されたかのようにつきまとうこととなった。

そもそも大阪においては、「おまえ」「なんや、おまえ」「アホか、おまえって言うな、ボケ」「アホッちゅうもんがアホや、ボケ」といった用語は園児ですら口にする日常語であり、それはもちろん、大阪における不動の道徳番組とも言える吉本新喜劇で標準的に使われるからであり、テレビで橋下市長がたまたま使うのを見て、それを面白がって真似るなんて、およそ有り得る話ではない。

おばちゃんの党の谷口某の発言を耳にした関西の方々は、おそらく私同様の奇異さを感じただろうし、庶民派ぶったいかにもそれらしいような小ウソっぽい発言内容を不快に感じたことだろう。

そして、もう一つ付け加えるなら、仮に橋下市長の発言を真似て誰かをおまえ呼ばわりする子があったとしても、同じく橋下市長が言った「人種や民族を一括りにして差別するな」という言葉を真摯に受け止めた子も多くあったはずであり、「大人」の責任として、この場面について語るのであれば、「おまえ」という大阪では日常的にありふれた瑣末な言葉遣いなどを取り上げるのではなく、「差別」を巡っての両者の見解についての評価をこそ話すべきであろう。


橋下徹という人物と彼が対峙してきた問題群については、後世、映画化され語り継がれるだろうと映画好きの私は予想している。

同時代にあっては分かりにくいだろうが、この先将来、多くの人間にとってこの人物は「良し悪し」ひっくるめて吟味考察され学びの対象となるに違いない。

鑑賞に値する人物など、同時代の大阪において、他に誰かいるだろうか。

後世の人の目を通じて虚心にこの人物を眺めればどのように映るだろうか。

恵まれた環境に生まれたのではなかったのかもしれないが、勉強して北野高校に入りラグビー全国大会で花園に出場し早稲田に入って弁護士になった。

普通の根性ではないであろうから、反感を買うようなこともあるのかもしれない。
しかしいまのドツボの大阪で、同和団体ややくざや既得権勢力や在日やらによしよしクスグラれても懐柔されず立ち回れるのは、彼くらいしかいないのではないか。

大阪のトップなど、ローカル放送局のアナウンサーやお笑いタレントや物分りの良いおっちゃんおばちゃんに務まるポジションではないだろう。


その彼が、本名も経歴も素性も学識の程もよく分からない、しかも主張していることはレイシズムでしかない人物と対面し、ほとんど一瞥だけで取り合わず、一喝した。

レイシストは政治には興味がないと何度も繰り返し、この先影響力有する誰とも会うことは叶わなくなったであろうし、この瞬間活動家としての前途を自ら閉ざしたも同然であった。

言わずもがななメッセージを強く発した橋下市長を私は正しいと思ったが、その後、テレビを見て驚いた。

品格がどうだの、相手にお墨付きを与えたなど、非難のための非難を言う人の何と多いことだろう。

品格の出る幕などなかったことは一目瞭然であるし、あのやりとりを見て相手にお墨付きを与えたと思うなど妄想にもほどがあるだろう。

愛想笑いのひとつも、縦にうなづく気配すらも絶対に出せない場面で、橋下市長は相手の本質をあぶりだし、かつ行政のトップとしてきちんと強いメッセージを発した。

あれができる人物は他に見当たらず拍手喝采の対応であったと言える思うのだが、それに文句がつくのだから、何とも因果な商売である。

常人ならやってられるかとなるところだろうが、ちんまい小言など全部呑み込んで揺らがずといった段階に、あの器はいよいよ進んで行くのだろうか。