KORANIKATARU

子らに語る時々日記

残酷な世であることもまた確かなようである。


車検終えたクルマを引き取るため今宮駅で降りた。
ここで降りたのは生まれて初めてのことであった。
日頃寄る店も用事も知人もないし、仕事先もない。

夕刻、風が冷たい。
空も路面も鉛色。
道端のゴミが凍ったように見える。

しばらく歩くと左手にクルマ屋が見えてくる。
と、右手におじさんが歩道を背にし道路を向いて突っ立ているのに気づく。

タクシーを待つ様子ではない。
おじさんは、植込みめがけて用を足しているのだった。

この辺りはちょっと通りかかっただけで、エピソードに事欠くことがない。


店内で腰掛けクルマの支度を待つ。

と、場違いな雰囲気のおじさんが入ってきた。
さっきの小便のおっちゃんだ。

来客者がお見えと一人の営業マンが反射的に近づきかける。
瞬時に、おっちゃんの身なりを上から下まで目でなぞっているのが傍目で分かる。
その営業マンは会釈だけして通り過ぎていった。

おっちゃんの方から声をかけ、別の営業マンが捕まった。

ベンツはないんか。
えっ? クラウンだけか。
400万くらいすんの?
昔よりごっつい安なったな。
円安やしな。

営業マンは適当に相槌を打ち笑顔で対応し続ける。
珍客にも慣れているのだろう。
相手の神経を逆撫でせぬよう最低限の礼節は保ちつつも、やりとりが手短に切り上がるよう言葉数少なく消極的な応対に終始する。

そのような光景を目にすることに私は慣れていない。
居心地はよくない。
その場に居合わせその時間に滞空するのがだんだん苦しいような気持ちになってくる。

貧相な身なりで実は大金持ち、気に入ったクルマを片っ端から現金ニコニコ払いする、そんなオチであればいいのにと思いつつ、しかし、そんなことはあり得ないとおっちゃんの出で立ちが雄弁に物語る。

着古した作業着は泥まみれであり、髪は天然の脂でかたまり顔は垢で黒ずんでいる。

こっぴどい日雇仕事で親方に粗末に扱われているような姿が浮かぶ。
でも、ここでは神様仏様お客様。
人に丁寧にされる幸福を、束の間味わうことができる。

また来るわ、おっちゃんがそう言い、営業マンは安堵の表情を浮かべた。

おっちゃんが店外に出る。
なりを潜めていた平穏が息を吹き返し、凍てつきかけた空気が一挙に和らいでいく。

私もホッとした。


思いがけぬ場所で蓋が開いて、日頃目を背けている現実の一断面を否応なく見せつけられたようなものであった。

私はたまたまそのおっちゃんではなく、おっちゃんはたまたまそのおっちゃんとならざるを得なかった。

不運重なり、折悪しく誰からも手を差し伸べられなかったら、誰だってそうなりかねない。
ひんやりした感触が首筋に走る。
世相はますます世知辛い。

まさに運命のさじ加減ひとつの話。
抗いようのない力に翻弄され、不本意にも、いつのまにか眉を顰められ、目を背けられる存在となってしまう。
もはや自力では、どうにもなりそうにない。
捨て鉢となれば、違う在り方があり得ることすら考えられなくなっていく。

凍てつく冬が間もなく訪れ、おっちゃんは誰からも大切に扱われることなく、幾日かは野ざらしの場所で過ごすことになるのだろう。

平和で豊かな一方で、残酷な世であることもまた確かなようであると、今宮を訪れて思い知らされた。