1
野田阪神の交差点で信号を待つ。
そのとき、微か舞う程度だった小雪が本格的な降雪へと変化した。
左横に母子が立っている。
抱っこ紐の間から不思議そうな顔した女児の顔が見える。
女児は空を勢いよく横切るおびただしい数の雪片に目を奪われている。
後方から老人が歩み寄り、その母子に傘をかざした。
「向こうの商店街まで」と老人は静かに言った。
信号の先にはアーケード付きの商店街がある。
そこまでは傘にお伴させましょうということなのだろう。
母親が胸元に抱く娘に言った。
「助かるねえ、嬉しいねえ」
そして、老人の方を向き、「この子は、はじめて雪を見るんです」と言い、老人の心遣いに礼を述べた。
ちょうどそのとき、自転車の急ブレーキの音が背後で響いた。
雪が強くなり、両者とも大慌てで自転車を漕いでいたのだろう。
あわや正面衝突というすんでの所で、二台の自転車は身をかわし合ったようであった。
片方の女性が不快さをあらわに舌打ちする。
それを受けてもう片方の女性が、大声で一喝した。
「おまえのせいやろっ」
身なりはごく普通。
年格好はともに30代後半といったところだろうか。
やはりここは亜熱帯大阪。
真白な雪は、不似合いだ。
2
芦屋へと向かう。
阪神電車は大阪空気の通気口のような役割を果たす。
こってりとしたソース臭が兵庫県東部にまで届くのはひとえに阪神電車のおかげである。
香櫨園辺りが汽水域だろうか。
芦屋まで来ればソースの匂いは途絶える。
西へ向かうにつれ電車に腰掛けるエキストラの役柄が徐々に変化していく。
その様子は見ていて飽きることがない。
尼崎あたりのブロークンな雰囲気は依然大阪濃度百パーセント。
それが芦屋になると様変わり。
ご婦人のお言葉使いは、それはもう丁寧を通り越して慇懃というしかないような雅さを帯び始める。
しかし最近はそのお言葉遣いも、ややエスカレートし過ぎなのではと思うことが増えた。
東京暮らしが長ければやや奇異に感じるであろうイントネーションの標準語、二重三重どころでは済まない幾重にもぐるぐる巻にされたような過剰敬語が、耳障りというほどではないにしても、やや耳につく。
本当に美しい言葉遣い、洗練された話法を身につけた方とは、似て非なる響きである。
その氾濫を感じ取っている方は決して少なくないだろう。
おそらくは、芦屋風情をそれらしく真似しあう共演の相互作用が、地の人が織り成す様式とは別様の新芦屋文化を顕現させているのであろう。
3
訪問した会社の事業主さんは、芦屋生まれの芦屋育ちの人である。
最近近隣に越してきたある若奥さんを巡って、古顔のママらが苛立ちを募らせているという話を仕事の余談として伺った。
人付き合いについて明確に分け隔てするその若奥さんは、古顔には不評でその話題が絶えることがないそうだ。
夫が超一流企業にお勤めだからだろうか、夫が一流大学の卒業生だからだろうか、実家が由緒正しき家柄であるからだろうか、ご本人が女性憧れのステータスある職業人であったからだろうか、理由は定かではないが、相応のママさん以外は軽くあしらわれ、路傍のママなど、露骨に視線外され口も利いてもらえないのだというからほとんどマンガのような話である。
真偽や事情は知らないが、路傍のママらの気持ちも分からないではない。
多かれ少なかれ蝶よ花よと育たられた女性という生き物においては、歯牙にもかけられない、という事態ほど許せないことはなく、この唖然愕然は生涯忘れ得ぬほどの悔しさを募らせるに違いないのである。
良きコミュニケーションのためなら自虐も厭わないざっくばらんな路傍のママも、無視されたのでは自虐すら発揮のしようもなく鬱憤溜まるばかりとなる。
その話を聞きつつ、私はかつて長男から聞いた西宮の塾の話を思い出す。
学習塾にもカーストが存在する。
最優秀なクラスの生徒は、同じ学校である場合を除き、最下層のクラスの生徒とは口をきかない。
塾がカーストの再生産に一役も二役も買う。
子供は大人の写し絵。
そのような暗黙のコードが実在し機能するのが人間社会のまずは原型ということなのであろう。
つべこべ言っても始まらない。
広く見聞を広め、自らはそのようなコードの作用を受けず、そうではない共同体の一員であろうと心がけることくらいしかできない話であろう。
4
帰宅し、二男と「猿の惑星」の新作を見る。
猿ウイルスが蔓延し人が死に絶える一方で、その同じウイルスによって猿が知能を獲得し繁殖していく。
あり得るような話だと手に汗握った前作とは異なり、今回の新作については、別に山の民は猿でなく、人間であっても成り立つ、ありふれたようなお話でしかなかった。
猿のリーダーが人情を知るシーザーであったればこそ、猿と人は全面的な殺し合いの道を踏みとどまり和解を模索できた。
シーザーが単に猿であれば、人と猿の橋渡しなど不可能で、「人が有する猿への偏見」と「猿が有する人への嫌悪」は互いを殲滅する方向にまっすぐ突き進むだけであっただろう。
「橋渡し」がなければ、殺し合うだけ。
そのような猿と人に共通する暴力性を娯楽にしただけの映画であった。
5
前夜、福島のイタリアン「ラ・クチネッラ・ディ・ヤマモト」で星光の大先輩に食事をご馳走になった。
アキ・カウリスマキの映画に登場するような、あたたかな人間味がふんわりにじむお店であり、席に座っただけで心癒された。
人間らしく、優しく落ち着いた気持ちで安らげる素晴らしい雰囲気のお店である。
大阪の福島にいるなんて、一歩お店に入ればたちまち忘れ去ってしまうことだろう。
そして、味わい深い一品一品を堪能しつつ、大阪星光という学校の存在に感動するのであった。
一体なぜ大阪星光は、こんなに心根の優しい良き方だらけの学校なのであろうか。
それを語る上では、やはりキリスト教という論点が外せないだろう。
さほど熱心にキリスト教を学ぶ訳ではなくとも、私たちのDNAに僅かであれ何らかの痕跡は残された。
話半分で耳にした倫理の授業において我々が学んだのは、宗教というカテゴリーの何かではなく、キリスト教という観点で行われた世界史というのでもなかった。
実生活や生き方に遠隔的に長く影響及ぼす世界観、人間観のようなものであったのではないだろうか。
そして、勉強がほどほどよく出来るといった小さな話ではなく、責任感や勤勉さ、人間愛や温厚篤実を備えた人柄や人間味という点にこの学校で培われた真価があるのだと、卒業して何年も経ってから気づくことになる。
6
33期については声掛けルートも定まって折々集まるようになったけれど、ヨコのつながりだけでなく、今後はタテ方向についても「手付かずとなったままのご縁」を掘り起こし再興していく上で自分に何かできることはないだろうかと考えている。
「タテの有機化活性化」のためにできることは何でもやろうと思っている。
我々が80歳になるころ、大阪星光は100周年を迎える。
私達の孫が記念すべき100期生となることもあり得ることだろう。
100年分がガッチリつながる良き学校となるよう、ささやかバトンを受け継ぎ受け渡したいと思う。