KORANIKATARU

子らに語る時々日記

たまには人類の悪についても目を注ぐ


日曜日、帰宅する。

ラグビーの試合を無事終えた長男がリビングの床暖のうえ身を横たえ寝入っている。
彼の毛布をたぐって私の膝にもかぶせ、DVDをセットし「黄色い星の子供たち」を見始めた。
長男は微動だにしない。

1942年、フランス政府が行ったユダヤ人の大量検挙「ヴェル・ディヴ事件」を扱った映画である。

ドイツの占領下にあった当時のフランス政府は、ドイツの言いなりであった。
ヒトラーが構想する民族浄化に手を貸し、1万人以上のユダヤ人を一斉に検挙し収容した。

最初の収容所となった自転車競技場の不衛生極まりない様子だけでも見ていて気が滅入る。

収容されたユダヤ人たちは東へ移送され強制労働させられるのだとめいめいの先行きを案じ合っている。
彼らは、強制労働収容所ではなく絶滅収容所に送られ処刑されるという自身の運命について知らされていない。

そんな理不尽な話があるものかという滅茶苦茶な不条理が、ついこの間、実際に起こったのだった。


殺されるのだとは知らず、収容された家族が互いに励まし合う。
映画の各シーンを、自らに引き寄せて考えてみる。

もし、我が身にそのようなことが起こったとして、私は父として尊厳持った振る舞いができるだろうか。

70年前、その悲痛な運命に直面したのは私たちと同じ生身の人間たちである。
そこにいたのは、私たちに他ならない。

私たち同様に自らを「私」と認識する1万もの自我が、為す術なく、官僚的な手続きの流れのまま効率的なやり方で「処刑」され「始末」され「後処理」されてしまったのだ。

何度でも思う。
こんなことが実際にあったということが、信じられない、人間というのは何と恐ろしい存在なのだろう。


「運搬」の事情で、先に親らが、絶滅施設に送られる。
離れ離れとなる親子ではあるが、数日後にはまた再会できると信じている。
単に列車の都合で施設への移動が後先になるだけのこと、そう思っている。

だから、やっとのこと、子らを運ぶ列車がやってきた時、子らは我先にと駆け出す。
パパやママに早く会いたい、急く気持ちを抑えがたい。

しかし、その時点で、パパもママもガス室で殺されていたのだった。
そして、子らも、列車で「運搬」され同様に殺されるのである。

映画のなか、ヒトラーとおぼしき人物が言う。
どうせ灰になる。
灰になれば、男も女も、大人も子供も関係ない。
何人死んだかも分からない。


「黄色い星の子供たち」に先行して名作「さよなら子供たち」をみていた。

この2つの映画は表裏を為している。
捕らえられ収容所送りとなった1万のユダヤ人とほぼ同数のユダヤ人が心あるフランス人によって匿われていた。

さよなら子供たち」はカソリックの寄宿学校を舞台とする実話である。
神父である校長が、ナチスに追われるユダヤ人の子らを匿う。

その匿う日常を描いた映画である。

しかし、日常の時間が静かに流れる中、ヒタヒタとナチスの手が迫ってくる。
見るに忍びないほどの緊迫感の果て、ユダヤの子らはとうとう捕らえられるのだった。

1月の雪の舞う朝、全校生徒を前にユダヤの子らが学校から連行されるシーンは、実話であるからこそ痛切極まりなく、また殺されることがわかっているのだから、ただただ言葉を失うばかりとなる。

人間というものを虚心に理解する上で、このラストシーンも胸に刻み込んでおくべきだろう。


以前、朝日新聞の書評欄で「軍服を着た救済者たち」が取り上げられていた。
全員が全員、ヒトラーの命令に従った訳ではなかった。
ドイツ国防軍のなかでさえ、40〜50人は我が身の命も顧みず「正義の人」としての役割を果たしユダヤ人を助けたという。

後年、これら「正義の人」の実像に迫る著述が数々なされた。
彼らは、その信仰、信条、思想に誠実な稀有な存在であり、人類愛、確たる意思、そして能力を有する人物であった。

そして何より、ユダヤ人を救済しようと決めた彼らの決断の背景にあったのは、教育であり人格であった。
そのような動機が生まれる素地は日頃の生活様式のなかで確固として既に身についていたのだった。


映画「ハンナ・アーレント」で主人公が熱弁奮って強調した、悪は凡庸であり、本当に恐ろしい悪は、悪意による悪ではなく、無思考によって引き起こされる悪であるという言葉を、私たちは知っておこう。

ユダヤ人の大量殺戮は、効率的にシステム化された無思考があったればこその話であったに違いないのだ。

もし、各現場が、上から発せられた命令の意味と遂行の結果を「考えて」しまえば、多少なり反作用としてのブレーキはかかっただろう。

やむにやまれずもしくは最初は抵抗感覚えた命令の遂行も、それが評価され無思考的な反復作業になるのであれば、歯止めはきかなくなり、人間というのは過剰適応してしまう存在なのであろう。

今は平和な日常続く日本であるが、無思考の悪、について日頃から心に留め、悪について自覚的でいたいものである。

さしあたり、子らには「黄色い星の子供たち」を見せることにする。