KORANIKATARU

子らに語る時々日記

大切にするものは人によってそれぞれ異なる


土曜日午後、クルマで帰宅していると、マウテンバイクに乗った33期岡本くんが前方からやってくるのが見えた。
車内から手を振るが彼は一向に気づく様子がない。
午後2:53、すれ違った。
彼はうっすらと笑顔であった。
つられて私も笑顔になった。
友人の笑顔はいいものだ。

自宅前に横付けしシャッターが開くのを待っていると真後ろに家内が駆るクルマがやってくる。

二台揃っての車庫入れは、フィギュアスケートのペアの演技みたいに見えたことであろう。


土曜夕刻、二男がスラムドッグ・ミリオネアに引き続き、ライフ・オブ・パイを見始めた。

一家の主はみやげに寿司80貫を携え子に渡す。
事務所近くの寿司屋は本マグロが秀逸で、それが土曜午後にまだ5貫残っていた。

本マグロについては一人一貫ずつだと言い渡し所用で一時家を離れる。

あっと言う間のことであったという。
ライフ・オブ・パイのトラはリチャード・パーカーと言う名であっただろうか。
我が家にはリチャード・パーカーが二頭いる。

80貫が平らげられるのに20分もかからなかったという。
いつか私も平らげられる。
もちろん端からそのつもりなので大いに結構、賑やか貪り食ってくれればいい。


リビングでは長男が二男に数学を教えている。
その姿を横目に私は晩酌を始める。

大切にするものは人によってそれぞれ異なる。

価値観というのはそれぞれが持つ未来観に依拠し違った絵柄となって表出してくるものなのであろう。

子らが対峙する世はおそらく生易しいものではなく、そしてそう遠くないうち、いつか必ず私は去って、彼らと別れねばならなくなる。

そのような未来の一シーンを基調とすれば、彼らとふと憩う時間の幸福の何と有り難いことだろう。
ついうっかり涙しそうになるほどである。

生きることが永遠に楽しい、ということなのであれば、子育てに際してこれ幸い思う存分幼子へと退行し、大人も子供と一緒になって、軽くどこまでも軽くのびのび幼稚に遊びほうけていればいい。

ずっと楽しいのであれば、はなから楽しくやればいいのであって、何も好き好んで気難しいことや真面目なことに取り組む必要はない。

しかしところが、人生はずしりと重い。
人生ほど重いパンチはない。
ロッキー・バルボアが言った通りのようなのである。

生きとし生けるものみな、これからもずっとあれやこれやとたいへんだ。
いいことなんてたまにしかない、あるだけましだ。
そんなようなものである。

パンチに悶絶させられることがあるからこそ、私たちは大切なものが分かるのであり、そのかけがえのなさに震えさえするのであろう。

パンチに耐えつつ、ビールで乾杯。
この苦さがたまらない、それが私たちにとっての人生の真実であるようだ。