KORANIKATARU

子らに語る時々日記

食後家族で映画見て無言となる


春休みに入って家族揃って食事する日が続く。
鶏鍋をつつきながら、家族4人で過ごす。

その日イラッとくることがあってむかついたと長男が話す。

むかつく、という言葉はやめよう。
違う4文字、「むかつく」を入れる箇所に例えば「ふんわり」という語を代入するのはどうだろうか。

むかついた、と言うより、ふんわりした、と言えば導かれる表情も異なったものになる。
むかつく、なんて顔面の筋肉の無駄遣いだし、胃にも悪そうだ。
ふんわり、であれば省力的であり、さらにいいことに、福まで来そうではないか。

「未来惑星キン・ザ・ザ」の民がそうであったように、ボキャブラリーが少なければ少ないほど、メンタルについては大雑把な誤訳が増し、反応が貧相で露悪なものとなりがちになる。

何であれ、違う言葉で捉え直してみる習慣が大事であろう。


学校の課題図書の話から、最近見た映画の話になって、二男が言った。
「ミスタービーンは一瞬笑えるが、よく考えれば全く笑えない」

彼にとっては、ロビン・ウィリアムスの「ジャック」が最高の名作だ。
笑えるようで笑えず号泣してしまうのだが、最後には爽快な微笑みが心に残る、そういう映画である。

そのような価値判断をする少年からすれば、ミスタービーンによって引き起こされる笑いには一種の暴力性が潜んでいるのは明らかで、考えようによっては手放しで喜べるようなものではない。

笑っちゃいけないことを笑っているかもしれない。
まもなく中学1年生、そのような気づき方ができる少年の見識に父は感心するのであった。


食事に引き続き順々に風呂に入り、男子三人で名作「ジョニーは戦場へ行った」をデッキにセットした。
1971年制作の古典とも言える作品だが、異様なシチュエーションと悲痛な語りに引き込まれていく。

ラストシーン、男子三人は画面に視線釘付けのままとなる。
しばらく身動きできない。
無言が続く。

名作には、その状況設定の枠を越え、上位次元の視点を付与する力がある。

一個の精神が発する声にならない声。
この映画を見終われば、そういったものが存在することを知ることになり、それに耳を傾けようと思うことになる。