1
帰宅すると二男が待ち構えていた。
とっくに宿題は終わった、ビデオを観ようと誘われる。
ああ、家族。
かつて東京で一人暮らししていた当時の寂寥はどこへやら。
14インチのテレビ見つめプラスチック容器の弁当を缶ビールで流し込んでいたあの世界。
そことこことがまさか地続きだとはとても思えない。
では飯食った後で。
「スタンド・バイ・ミー」を観ようと、二男に応じた。
夕飯は家内が作ったタンドリーチキン。
そういえばもうすぐ「チキンとプラム」という映画が届くよと話しつつ食事を始めると丁度長男も帰宅した。
学校のあれやこれや、尽きない話題を楽しく聞きつつ食事する。
2
食後自主トレを始めた長男を横目に、DVDをセットした。
新しくなったサントリー角ハイボールを味わいつつ、二男と横並び画面に見入る。
私にとってこの映画を見るのは二度目となる。
友情がテーマの心あたたまる内容であるという学生時代の記憶だけは鮮明だったが、話の筋は忘却の彼方であった。
再見し、名作の所以を知った。
単なる、楽しい友情物語ではない。
まっすぐ伸びて明るくニコニコ、朗らか育つ。
友情はどうやらそのようには育まれるものではないようだ。
登場人物の4人は、死や暴力、大人の欺瞞、家庭のゴタゴタ、それに加えて経済的諸問題に取り囲まれている。
彼らが足並みそろえ「死」と向き合う旅に出る。
その旅を通じ、友情が、不器用な仕方で徐々に確かに育まれていく。
重たい現実の陰影のなか、キラリと光る。
友情とはそのようなものなのだろう。
ウキウキルンルン、ぴょんぴょん跳ねてぴちぴち生じるようなものではない。
主人公は最後に記す。
「あの12歳の頃のような友達はもうできない。もう二度と」
楽しいだけの世界では、連帯も共感も生まれない。
そこには、友情芽生える素地がない。
艱難辛苦汝を玉にす。
そこにヒントがあるのだろう。
苦労と困難。
そのようなアトラクションにこそ仲間募って列なすべきなのであろう。
友情はきっとそのようにしてこそ磨かれる。
3
我が家では風呂が図書室。
長男が池井戸潤を読み、二男が東野圭吾を読む今日この頃、私も何か一冊と風呂場に「葉桜の季節に君を思うこと」を携えた。
湯に浸かってページを繰って、すぐに作品世界に引き込まれそのまま手離せなくなってしまった。
風呂をあがっても読み続け、寝床でも読み耽ることになる。
ぐんぐん読んで夜も更ける。
眠気は失せてページ繰るピッチがますます加速していく。
そして終盤に差し掛かって、えっえええええ、と驚愕。
一本取られた降参だ。
これはもう、びっくりとしか言いようがない。
もちろんこれだけの話題作、ビックリだけの話ではない。
読後の余韻もなかなかのもの。
しかし、子には渡せない。
子が向き合うにはいきなり出だしの性描写が少し露骨に過ぎる。
読むにはまだまだ早すぎる。
友達同士、酒場でそのような話題ができるようになってからでも遅くない。
それより何より、友達づくりの方が先だろう。