KORANIKATARU

子らに語る時々日記

中学受験も遠く過ぎ去って


星光の大先輩から過激に美味でフレッシュなジュースの詰め合わせを頂戴し、翌々日、その御礼のご挨拶をしたときには、子らがすべて完飲していた。

1946年の統計開始以来最も暑い5月であり、しかも育ち盛りでやんちゃ盛りということであれば、干上がるほどに喉も乾くということなのであろう。

ボトル4本に詰まった甘い蜜。
成獣化まっしぐらの子グマ二頭にかかれば一溜まりもない。


長男が小4になる2010年初頭から二男が小6を終える2015年初頭まで、かれこれ5年に渡って受験パパの役目を仰せつかり、何やら結構たいへんであったはずだが、今ではキレイさっぱり忘却の彼方、もちろん諸々の出来事などは憶えているが、日々どのような心情で過ごしていたのかについては、胸に手を当てようが容易には蘇ってこない。

青葉繁る早春、初恋のキュンとなるような胸の疼きなど、枯木風情の晩秋においては、どこを振っても叩いても思い出すことができない。
それと同じようなものであろうか。

過去の日記を振り返り、それでやっとのこと当時の心情のリアルな断片に思い当たり、なるほどそうであったそうであったとゾクリ冷や冷や懐かしむことができる程度。
それほどまでに感情についての記憶は劣化する。

やはり書いて残すことには意味がある。


現役の受験パパを退いて、日々に疎し、もはやすっかり偏差値などへの関心も薄れ去ったのであるが、昨日たまたま、最大手が発表した今年の結果偏差値とやらを目にする機会があった。

関西においては、サンプル数考えれば最大手のものが基礎データとして信頼置けるだろう。
というよりも、それ以外の関西の塾については、一体どのようなやり方をすれば統計的に信頼性ある算出ができるのか不思議なくらいである。

合格実績の少ない学校についてまで網羅してあるあれら偏差値表は眉唾としか言えず、おそらくは私同様、それこそが最も確からしいものとして、最大手の提示する数値を横目参照しているのであろう。

もちろん、最大手のものであっても、つぶさに見れば、経年による数値変動の振動幅が極小であり、計算した結果をポンと出すというよりは、人的な評価補正がなされているものとうかがえ、その目利きの感覚の正否までは分からないので、絶対のものとは言えない。
しかし、まあ、ケチつけ始めてもキリがない。

受験パパであった当時は、そのデータに真正面向かい合い、過去数年に渡っての合格者偏差値分布図を穴が空くほど睨みつけ益ある情報を汲み取ろうとしたものである。

誰が何を言おうが、テストの結果と過去のデータ、それのみが受験においての磁石と地図になる。


今年の結果偏差値を見て、それを時系列でつなげ、何らか無理やり解釈を加えるとするならば、「二極化と均等化」、ということになるだろうか。

最難関グループとそれに続くグループの偏差値の序列において、かつては、後期日程の学校の偏差値が上位に食い込むという傾向が見られたがその隆起が影を潜めて、前者と後者がくっきり分かれる二層の紋様となり、なおかつ、それぞれの層において、差異が減少し均等化しているという風に見える。

細々区分されていたようなランク付けが徐々に大雑把集約的なものとなり、大括りなグループの分別に収まりつつある、そのような傾向が汲み取れると言えそうだ。

細か偏差値的な差異にはこだわらず、大らか無難な選択をする、という各家庭の方針がその背景にはあるのであろう。


そして、そんなこんな言ったところで、終わってみれば、偏差値なんてどうだっていいようなものとなる。
偏差値なんておとといおいで、である。

かつてのライバルたちは進学先違っても今も引き続き仲良い友達同士であり、それぞれがぞれぞれの場で先を見据え現在地点を踏みしめ、さあこれから、次へ進もうと意気込んでいる。

子らは子らで何のてらいもなく学校間を越えて付き合って遊ぶのであるし、加えて、ママ友らについても受験つながりで横断的な付き合いが残り買物に出かけたり食事に出かけたりと親睦関係が継続していく。

いい意味での戦友感覚が共有されているのだろう。
そうそう、みんな頑張ったのであるから、仲がいい。

中学受験が終われば地に足ついて、偏差値がどうだのこうだの、余程の暇人以外は気にしない。
そんなことより、現時点、現状況。そこから未来をどう切り拓くか。
そちらの方が遥かに大事。

所詮は遥か過ぎ去った通過点。
まともな世界に身を置くのであれば、この先何の自慢にもなりゃしない。

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