1
日曜夕刻には山盛りであった洗濯物がすっかりキレイになって月曜朝にはきちんと畳まれている。
昨日までは草臥れたような哀愁漂わせていた子らの制服が、アイロンで生気得たみたいに凛々しく佇み出番を待ち構えている。
二男が研修館から戻り従来の日常が再開した。
研修館では一日四時間の勉強が課せられたという。
しかし自由時間もままあってクラスを横断して仲の良い友だちが何人もできた。
ずっと研修館で暮らしてもいい、二男はそう言った。
日曜夜、二男の部屋を訪れその勉強する様子を眺めて言葉を交わし、引き続き長男の部屋を訪れる。
熱心に机に向かう様子をドア越し目に留めそっと扉を閉めた。
そして、父はリビングで一人、映画を見始めるのであった。
2
タイトルは「罪の手ざわり」、中国映画だ。
中国については爆買いなど折々一面的な情報だけがメディアで取り上げられるが、その地に横たわる日常の閉塞などについては、知る機会がない。
そこに在る人々の実際を理解する上で、映画の果たす役割は非常に大きい。
各ストーリーがバトンを引き渡すように次のストーリーへとつながっていく。
全四話、どれもこれも強い訴求力を持つ。
深い部分に届いて、心締め付けられるような後味が残る。
第一話はさびれた炭鉱の村が舞台だ。
毛沢東の銅像の横を軽トラに乗せられ聖母マリアの肖像が運ばれていくというシーンが序盤にある。
しかし、この村では人々はお金に支配され、お金を信仰する。
村の共有財産を処分し私腹肥やした実業家に村人はこぞってかしずき笛や太鼓を奏でて礼賛する。
正義を訴える主人公に耳を貸す者はない。
第二話の主人公は流浪の強盗。
富裕層を撃ち殺し金を奪って田舎の家族へ仕送りする。
人を殺すのに躊躇がない。
そして、第三話ではサウナの受付で働く女性に焦点があたる。
不倫しているが相手は妻子と別れてくれそうにない。
あるとき、酔った金持ちに、「金ならいくらでもやる」と横っ面をお金で叩かれ陵辱される。
第四話では青年が登場する。
彼が置かれた状況は圧迫感を覚えるほどに息苦しい。
母からお金の催促が絶えない。
賃金は雀の涙。
恋する相手はお金の言うがまま、お金持ちのおじさんのおもちゃにされるような仕事に携わる。
青年は自らに牙むかざるをえないという状況に追い込まれていく。
3
お金以外に価値が何もないような凄まじい荒涼が終始描かれ続ける。
お金が分厚い壁となって、世界を分ける。
弱者は為す術がない。
最後には、暴力に行き着かざるをえない。
暴発、というしかない暴力に至る。
映画の各所、路上の舞台で行われる古典劇のシーンが挿入される。
人々はそれに夢中だ。
何か古き良き理想のようなものが、かつてあったはずの良きものがそこに体現されているのだろう。
しかし、暴発した者は、古き良き善悪の世界においても、断罪されることになる。
お金が支配する世界で行き場を失い、そして、伝統的な価値においても咎を受ける。
映画のラスト、幾重にも行き場が失われていく螺旋が見通せて血の気が失せるような思いとなる。
日本も似たような世相となっていくのかもしれない。
どう考えても、やはりヘラヘラしている場合ではないようだ。