1
なんてこともない平日の夜、家で家内と晩酌していると部活を終えた二男が帰宅した。
食卓に合流し二男が話す。
部活の集合場所に自分だけ20分も早く到着した。
そこに高3の先輩がいた。
どうしていいか分からず緊張し少し気詰まりだった。
早く他に誰か来ないとソワソワしていると、先輩が言った。
せっかく時間があるから練習しよう。
マンツーマンでとても丁寧にとっておきの技術を先輩は教えてくれた。
嬉しかった。
中1からすれば高3など、見上げるような頼もしいお兄さん的存在だろう。
そのお兄さんが、優しく接してくれれば、長く記憶にとどまるほどに嬉しいことに違いない。
そして、私の目に浮かぶ。
二男が高3になったとき。
見上げるような頼もしいお兄さんになった二男が、可愛い中1にでかい背中を見せ、優しく振る舞う。
星光の良き連鎖は途絶えることがない。
2
練習の疲れで腰が張って仕方ない、と二男が言う。
どれどれとその腰を揉む。
痛い、と二男はのけぞるが、我慢を促し更に腰を圧す。
部活が始まって以来、目に見えるように日に日にカラダが強く逞しくなっている。
運動すればするだけ頑丈になる体質なのだろう。
何気ない場面は、よほど印象が強くない限り、時間の流れに乗って忘却の彼方へと消え去ってしまう。
あったはずのことが、やがては、なかったことになってしまう。
流れ去る出来事の背をそっと掴んで離さず採集していく、まさに日記とはこのような営為なのであろう。
書き残すことで、あったことを、あったこととして、永く留め置くことができる。
いつか読み返せば、ありありとその瞬間が空気感まで含めて再現できる。
日記によって、この日のことはいつまでもここに在る、ということになる。
3
風呂あがり、姿見に長男が映る。
鏡越し、視線が合う。
長男がニコリと笑って私も笑う。
私に引き続き、長男が風呂に入る。
製造物責任者として、そのガタイに満足感を覚える。
こんなちっぽけでしがない私のような人間からすれば上出来だ。
鏡を通じ寡黙に交流したこの一瞬は私にとって忘れ難い。
このような幸福なシーンがいつか訪れるなど、子らを授かる前はもちろん、子らが小さかった頃も想像すらできないことであった。
未知の扉は開かれ続け、先々で私たちを待つ良き瞬間が、現在形となって眼前に現れる。
その姿を捉えれば、日記に書き留める。
次第次第、良き事への視力が増してくる。
日記は過去だけではなく未来にも関係する。
日記を書くとますますいいことが起こるようになっていく。
4
先日、年若い妊婦の話を耳にする機会があった。
職場でいじめに合うという。
女の敵は女。
妊婦であることを周囲に伝えるキーホルダーは、幸せを見せびらかせていると職場同僚の反感を買いかねないので付けないことにしている。
だから電車でも席を譲られることはなく、たまにうっかり優先座席に腰掛けていると威勢のいいおばさんに、そこのいて、とどやされる。
職場では、ほとんど全ての人が親切に労ってくれるが、お局様ともう一人の女性だけが露骨に仕事で無茶なプレッシャーをかけてくるようになった。
以前はそうではなかった。
妊娠を打ち明けてから、あからさまにそうなった。
一人は長く不妊治療している人であり、お局様は長くお一人様である。
後輩が妊娠して、幸せそうだ。
可愛い女の子でも生まれるのだろうか。
考えれば考えるほど、面白くない。
腹に子宝あるなんて許せない。
腹の虫が治まらない。
妊婦の話を額面通り受け止めれば、さしづめ相手はそのように苛立っているのかもしれない。
男には、女子対女子の構図は見えにくい。
たいてい女子は男にいい顔し、たいてい男は鈍感なので、女子が抱える秘めたる悪意を男が感知できるはずもない。
悪念は悪念を呼び、巡り巡って自らを害する。
他人の幸せが許せない。
仮にもし本当にそのような心境になっているのであれば、自らに着地するはずの幸せまで嫌気がさして逃げていくことになる。
悪を収集する人はそうとは知らず、悪いことにばかり着眼し、悪いことへの感度ばかりを強化して、ますます悪いことを引き寄せるようになっていく。
悪しきことの循環に巻き込まれぬよう、こういった類の人とは距離を置き、幸多かれと彼女らのために祈るにとどめ、後はいちいち気にせず知らぬ存ぜぬ、で通すことであろう。
自らが陥る負のスパイラルに気付かないままなら相手は早晩、自家中毒で自滅していくだけのことであろう。