KORANIKATARU

子らに語る時々日記

シンプルであることの快適


少しばかりは趣向を変えてこの夜はファミマではなくハートインでサンドイッチを買うことにした。
どのみち美味しいものではないにせよ、ちょっとした変化というものが心を満たす。

このところ、朝はなか卯で牛小鉢定食と納豆、昼は松屋でとろ玉うどんとミニ牛めし、そして夜はサンドイッチ。
三本柱のローテンションが確固としていて、この定番を軸に、時折ほんの少しアクセントやスパイスとして他のものが織り交ざる。

無秩序に三食とも目まぐるしく変わるより、ある程度決まりきった方が省力的であり生活はスムーズとなる。
これは着るものについても同じで、あれやこれやするより、忙しい身であるのだから手っ取り早く数パターンで済ませるのが仕事人の心得と言えるだろう。

シンプルであることで生まれる余力は侮れない。


男子三人のなか、私の帰宅が最も早い時間となった。

一階和室のテレビをつける。
タイガースがリードしている。
ピッチャーは藤浪だ。
ここまでスワローズ打線を零点に抑えている。

まもなく二男が帰宅する。
まっすぐ和室へやってきて顔を見せる。
もともとは客間。
畳や障子といった設えが落ち着くので私がそこで過ごし、普段は無人のその部屋に子らも「たむろ」するようになった。

ピッチャーが藤浪だと告げると、二男は俄然興味を示した。
エースが登板しているのであれば、やはり球場へ行かねばならない。
彼はそう考えたのだろう。
部活の疲労も何のその、早速身支度し上で家事する家内を誘い甲子園球場へと飛び出していった。


無人となった家で野球を眺める。
畳の上に寝転びながら先日訪れた網走監獄所のことを思い出す。

広大無辺な北海道を旅しつつ、子らに話した。
道路、橋、トンネル、鉄道、これらを造るため夥しい数の人命が引き換えとなった。
美しい自然にうっとりするだけでなく、この地で潰えた死屍累々に思いを馳せなければならない。

人身御供として人柱にされた者は数知れず過酷な労働によって息絶えた者は掃いて捨てるほどあってそこらに埋められた。

そういった話をしたからには網走監獄所の見学は外せなかった。

明治のはじめ、もともとは北海道開拓の労働力調達のため設けられた監獄所である。
政治犯として日本全国から収容された囚人1,115人が北海道の幹線道路となる中央道路開削のために駆り出された。

囚人道路と呼ばれる北見峠から網走までの228kmを僅か8ヶ月間、極寒となる12月までに完成させなければならなかった。
タコ部屋の原型となるような掘っ立て小屋で寝起きし粗末な食事で鉄鎖繋がれ重労働に従事する暮らしはそれは酷いものであり211人が命を落とすことになった。
逃げようとすれば身動きできなくなるよう耳に穴を穿たれ鎖で足と繋がれた。

平均すれば700mの作業で1人が死ぬという極限の世界であった。

骸は弔われることもなく道端に埋められ、鎖を繋がれたままの白骨が後世数多く発見されることになる。


打席に入った右打者が映し出されるとき、その後方、三塁側前列に座る家内と二男の姿が見える。
先ほど帰ってきたばかりの長男にそれを教え、二人して右打者が入ったときに画面に映る三塁側ばかりに注意を払うことになった。

iPhoneで撮って、いい写りのものがあれば家内に写メで送る。
こちらが送った写真を家内と二男が顔寄せあって眺めている様子がテレビ画面を通じて窺える。

先日二男に言われたことがふと頭に浮かぶ。
二男によれば、私は人前であっても結構独り言を漏らすという。
一人でいるときならいざしらず人前でもそのようであるなど私自身に自覚はない。

子の名をつぶやいていたのだという。
まさかそこまでの親バカであったとは。
診察が必要なレベルだ。

左打者のときに野球を見て、右打者のときに三塁側スタンドに目を走らせる。
このときも子の名をつぶやいていたのかもしれない。

この日記自体がそのようなつぶやきの集積である。
そういったつぶやきが、いつか伝わるのであれば私自身の小さなバトンを渡せたことになる、それで本望だと思って日記にしている。

いつ何時、我が身に何が起ころうと、たとえ鎖につながれ不本意な末路を迎えようとも、息子二人についての思いが残って彼らに伝わるのであれば、それで十分、親バカ冥利に尽きるというものであって、他に贅沢言うことなど何もない。

親とはそのようなものなのであろう。

単純な境地に達し日々過ごせるのは、とても快適なことである。

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