1
清涼で澄み渡っている。
風にあたるだけで気分がほぐれて優しいような気持ちとなる空高い晴天の午後、道の向こう、歩道に寝転がるようにブルドッグが繋がれている。
このまま歩けば、その鼻先を通り過ぎなければならない。
千葉で紀州犬が大暴れし警官が発砲し射殺したという事件を耳にしたばかりであった。
13発も撃ち込んだというのだから相当に差し迫ったような状況であったのだろう。
びゅうと風の音が鳴り緊張が走る。
日陰に入ればひときわ涼やか、更に気持ちが穏やかとなるのだが、秋はいいねと呑気な気分に浸っている場合ではない。
私の前方を行くママチャリがブルドッグの横を通り過ぎる。
私は注視する。
ブルドッグは無反応だ。
前を通り過ぎるもの一切に彼は関心がないようだった。
雲間から陽が差し歩道が明るく照らされる。
おそらく私も大丈夫。
カラダを強ばらせつつも男は度胸と足を踏み出し前を通り過ぎる。
彼はこちらをチラとも見なかった。
2
酉年生まれだからなのだろうか、犬が怖い。
大阪下町には躾の悪い犬が多かった。
よく吠え立てられたし、追いかけられたことも噛まれたこともある。
幼少時、町に出れば恐怖心がいつもつきまとった。
一人で暗がりを歩くときには、もしいまここで犬に囲まれたらどうなるのだろうかと戦慄し身をすくめたものであった。
今もそう。
犬が人に危害を加える生き物ではないという知識がある分、子供時分よりは冷静に犬と対峙できるが、それは頭でそう言い聞かせているからであって、いまは可愛くなついていても元は狼、いつ手のひら返して猛攻してくるか知れたものではないとカラダはびくつき腰は引けている。
だから平素から犬がいる道は避けるし、犬が放されている公園などには一歩も近づかない。
北朝鮮の高官が腹をすかせた犬の群れに放り込まれてなされるがまま殺されたという話を聞いたときには、視線が不規則に乱れ気を失いそうになるほど狼狽した。
私にとってはこれ以上の地獄絵図はない。
3
誰の人生であれ、曇り一つない完全な幸福などあり得ない。
地上には重力があり人はそれに縛られ、暑さ寒さがあり、争いがあり、老いがあって病があって、そして私にとっては犬がいる。
もちろん人それぞれ。
犬は人間にもっとも近しい相棒のようなもの、長年の付き合いでありその関係は分かち難い。
いつか私もその犬となりを心から理解して犬を抱きしめともに波打ち際を笑顔で走れるようになるのかもしれないが、今はまだ恐怖感を拭えない段階にある。
冷静に考えれば、もはや子供ではないので犬に噛まれるといった目に遭うことは考え難い。
かつて追われたり飛びつかれたり噛まれたことがきっかけとなって苦手意識が植え付けられただけのこと。
だから逆方向に認知が変われば簡単に解決するものなのだろう。
例えば犬と心通うような1シーン、そういうものがあればそれがきっかけとなってまるで正反対、たちまちのうちワンちゃんラバーへと様変わりするのかもしれない。
4
今朝方、楽しい夢を見た。
あまりに楽しくて、まさか夢ではないかと夢のなかで思ったのであったが、やはりどうやら夢であると寝床で気付いた。
楽しい夢はいいものだ。
欲はないが夢はある。
生きてあるなら楽しみがひとつふたつあった方がよく、楽しいことが近々に起こるだろうと予感することは、人に与えられた最も本質的な娯楽と言えるのだろう。
5
憎悪嫉妬呪詛怨念といった禍々しいようなネガティブな思念に溢れた世である。
ネットをのぞけば晒け出された人心の裏側に否応なく直面してしまう。
他者の破滅を待望し不運をあざ笑うような無数の汚らしい言葉が噴き出している。
およそ満たされた人が、そのような言説を吐き散らすはずはなく、おそらくはこの国を覆う不遇感や虚無感がネットを捌け口とし寄り集まってきているということなのであろう。
無数の犬に行く手をさえぎられとてもではないが飼い馴らせそうにもなくおっかなびっくり自らは現実社会において活路見いだせず、そうでない者に対して腹が立って仕方がない。
心中察すれば、そのようなことなのかもしれない。
これらネガティブな思念が結合すれば、災禍を招き寄せるのも容易いことであろうと思えるほどである。
それらに理屈で応じても詮無いことであって、お人好しなどうっかり相手してしまっているが、相手をさすって悦ばせ更に不潔極まりないドロドロを奔出させているようなものに過ぎない。
だから公共心に照らせば無視し気にも留めないというのがもっとも賢明な対応ということになるだろう。
言葉すら二極化していきかねない様相の日本である。
いい夢見ろよ、と柳沢慎吾は軽くおちゃらけて言うけれど、その問いかける意味は重い。