今日は日帰りで東京出張。
新幹線車内で日記を書く。
昨晩事務所を後にし、海老江からJRに乗った。
時刻は夜9時。
仕事帰りの勤め人らで電車は混み合っていた。
高校生三人が横ならびになって勉強している。
吊革に掴まりその前に立った。
シャツにローマ字の印字があって彼らが大阪桐蔭の高校生だと分かる。
左端の生徒は数学のプリントに書き込みし時折顔を上げる。
疲れているのだろう、表情は虚ろだ。
真ん中の生徒は、古文と数学をどちらつかずのように行き来しせわしない。
右端の子は数学に取り組み、座る横に「代謝とエネルギー」のプリントを置いている。
三人で少なくとも五人分のスペースを彼らは占有している。
が、勉強に夢中。
自らを客観視した場合の違和感に彼らが思い至ることはない。
吊革に掴まる勤め人のなかには、どやしつけたいと思うのをこらえる人もあったであろうし、学割で乗ってる分際で、足広げて偉そうに勉強するなと思う人もあったかもしれない。
世間の人も疲れている。
優しい気持ちであり続けることは簡単なことではない。
数年前のことを思い出す。
今はほとんどの日をクルマで通勤しているが、かつては始発電車で通ったものであった。
最後尾の車両に、いつもきまって見かける大阪桐蔭の高校生がいた。
電車のなか座っていようが立っていようが彼は熱心に勉強に取り組んでいた。
まだまだ日本も捨てたものではない。
私は感心したものである。
早朝は黄金の時間。
通学時間をさえ無駄にせず毎朝うまずたゆまず勉強に取り組んでいた彼は間違いなく志望する大学に合格できたであろうし、身体化された習慣を活かして必ずや偉い人、つまり人から頼りにされそれに応えることのできる人物になっていくことだろう。
電車の中でさえ勉強するくらい、クソ真面目な高校生がいるというのは心頼もしいことである。
もっとあちこちでそのような姿を目にすることができてもいいのではと思うくらいである。
精魂尽きるまで人の目も気にせずまっしぐら取り組むといった極度の集中経験は必ず糧となって返ってくるだろうし、実は本人にとってもそれは楽しいことであるはずで、仲間と取り組むなら更に楽しくそのような体感を持った人材が増えることはお国にとってもいいことであるに違いない。
真剣に勉強に打ち込むことを蔑むような風潮が一定の勢力を持ち、勉強しないことで、というよりも勉強しない方が人として重要な創造力や胆力やリーダーシップやコミュニケーション能力が備わるのだといった方法論欠く絵空事が、その方がキレイで楽しい話にしやすく聞く人にとっても耳当たりがいいからであろう、まことしやかに語られる世であるがそんな無思考には耳を貸さず険しい道を嬉々として進むべきであろう。
ただ、勉強をネガティブに捉える時代の空気は察知して、肩身が狭いことをしているのだという自覚のもと、電車のなかでの勉強はもっとコンパクトなスペースでするようにした方がいい。
おっ勉強しているのか、偉いなと思う人の方が、今の日本では少数派なのである。