KORANIKATARU

子らに語る時々日記

お国の覚えめでたくなる基準線


ワールドカップラグビー日本対南アフリカ戦の終盤、手に汗握る。
カラダぶつけ合うスポーツなので、力入って感情も全身まるごと入り込んでいく。
じりじりと日本が世界屈指のチームを押し込んでいく。
高ぶって涙ちょちょぎれる。

そして、何とそんなことがあり得るのだろうか、勝ってしまった。
世界レベルでは3桁の得点差で大敗することもあった日本が、あのインビクタス南アフリカを追い込み制したのだ。
やってやれないことはない、と誰もが勇気づけられたことであろう。

勝利の余韻に浸りつつ感動冷めやらぬまま私は西九条の大福湯に向かいサウナに入って汗と一緒に涙を拭いた。


風呂あがり夕刻の風が心地いい。
休日の下町をぶらりと歩き夕飯について思案する。

お蕎麦一盛りダイエットを始めて以来、このところ偏食気味だ。
野菜を摂ろうと事務所近くの中華屋へ向かう。

野菜炒めなどをつまみにしビールを飲むが中華なのだからと紹興酒へ移る。
冷やで飲む紹興酒がまろやかお口にひろがって臓腑に染み渡っていく。
あまりに美味しく飲み過ぎる。

ひととき事務所で休むつもりが目覚めると夜11時。
このまま寝てしまおうか一瞬は思うが、日曜夜を職場で過ごすなど寒々しい。
よっこらしょと起き上がり自宅へ向かう。


JR神戸線、帰省風の大学生を見かける。
シルバーウィークだからと実家に帰るところなのだろう。

何年か先、例えば東京などで下宿する息子らが帰ってくるシーンを想像してみる。
待ってましたとばかり私は彼らをともない酒場へと繰り出すことであろう。

次のシルバーウィークは11年後。
息子二人は20代半ば。
今私は46歳なので、そのとき57歳。

驚愕だ。
たった11年で還暦目前となるのである。
無慈悲にもほどがある。
時の流れが早すぎる。

あんまりだとショック受けつつ、しかし思い直す。
私は老いるが、その分、子らが男盛りへと至っていく。
何も悲嘆にくれることはなく、むしろ喜ばしいことではないか。

私が最も愛する映画は「リトルダンサー」であるが、そのラストシーンは感涙もの、育った息子の男っぷりを見ることほど心震えることはないはずで、その時の時を思えば、さっきとは正反対、時間よ進めと大きく旗でも振りたいような気持ちになってくる。


昨年入管法が改正され、今年4月から在留資格として「高度専門職」が新設された。

外国人の能力をポイント制で評価し、良質な人材を優遇しその受け入れ促進を趣旨とする。
背景には諸外国との人材獲得競争がある。
学術者、技術者、専門家、経営者など知識労働者が対象だ。

優遇の度合いは破格だ。
親も帯同できるといったことは他の在留資格では認められない措置である。
また永住への敷居も低く滞在年数が増えればそのまま地続きで永住が認められるようなものである。

平素は無言で押し返すようなムード醸す無愛想が、「高度専門職」を前にした場合には手の平返し温かにこやか抱擁してくる、そう例えればどの程度の優遇度合いであるかイメージしやすいであろう。

お国の覚えめでたくなる基準線がそこから読み取れようというものだ。

「高度専門職」であるためにはまず絶対の最低線があってそれが年収300万円。
これを下回っては認められない。

その上で専門職に関する学歴ポイント、実務経験ポイント、年収ポイント、その他、実績や成果や地位などが加算される。
70点以上になれば、晴れて「高度専門職」と認定されるが、高学歴社会である日本人にあてはめてもクリアするのは容易ではない。


外国人に対して設定されたハードルではあるが、一つの基準ラインとして私たち日本人も頭に入れておくべき指標と言えるだろう。
ポイントに達しなければ日本から退去しなければならない、ということではないけれど、この指標からお国の思想が具体的に汲み取れるし、日本において歓迎を受け平穏無事に暮らすための現実的な目安を垣間見ることができる。

これを見れば、子を持つ親として、つべこべ言わずやはり子にはしっかり勉強させようと思うことになるだろう。

この先の日本においては知識偏重主義を排し、正解のない社会で生き抜けるよう思考力や創造力、人間力に重点を置いた教育を目指さなければならない、教育観に関する現在のトレンドを要約すればそのようになるだろうか。

知識習得の学びの過程が、悪い方向に作用するものとして疎んじられるようになった風潮はこのような言説に起因しているのだろう。
何か壮大な陰謀なのだろうか、罪深い話である。

思考力も創造力も人間力も結構であるけれど、知識の習得がまずあっての話であろう。
知識の習得がヒトとして基本中の基本、基礎の基礎であって、どう考えたところで思考力や創造力や人間力といったものと不可分な主たる構成要素というべきものであり、疎かにして益ある訳がなく、分厚く学んだからといって害になるはずもない。

もちろん、知識を習得しただけでは生きてはいけない。
しかし、知識の習得欠けばプライド持って生きることは容易なことではないだろうし、この先何度でも自らを再教育せねばならない局面が訪れるに違いないが使い物になる基礎すらない自身の悲惨に直面せざるを得なくなってしまうことだろう。

食欲の秋、読書の秋、学問の秋、スポーツの秋である。
山ほど食べて動いて、そして少しは勉強にも力を入れようか。

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