映画館が家から近い。
十代中盤に差し掛かるうちの男子も何かと入用で何やかやと買い求めガーデンズに寄るが、その際にはついでに映画を見てくるということが増えた。
映画を見るのは男子のたしなみ。
ひとり静か映画世界の前にたたずむという習慣は彼らの内面に良き作用をもたらすものであるに違いない。
日曜夕刻、長男は留守であり聞けば映画だというし、二男は出かける準備をしていて聞けば映画だという。
家内と二人、夕飯の時間を過ごすことになる。
足りなくなると家内がステーキを追加で焼いてくれる。
結構上物。
おかげ様でハイボールが進む。
時折、家内のiPhoneにメール着信などがあって食卓の上でブルルと震える。
あれやこれやと交友広く何かの報せが絶えず連絡網を巡っている。
過半は好ましい方々のなか、世の常、人の常、なかには一癖二癖あるような難物もあるようでどういう風の吹き回しでかそういった方を発信者とする情報が紛れ込むことがある。
ネット回線によってあまりにも手軽に情報が相手に届いてしまうので、思慮浅ければ一見のもとその浅さ薄さは彼岸まで見通せて、そこに万一悪心でも宿っていれば見逃されることはなく白日のもと永く刻印されることになる。
この日、素晴らしい食事のひととき、夫婦そろってそのような情報のひとつに首を傾げ、連鎖する反応に引っ掛かりを感じた。
誰かにとって好ましくないことが生じたとき、思いやりのかけらもない、自らの立場に置き換える憐憫も知性のかけらもない、せせら笑いと小躍りを必死で堪えるような不謹慎で無神経な言葉を目の当たりにすると、ただただ悲しくやりきれない気持ちとなる。
二人揃って首を傾げて言葉を失い、そして怖いような気持ちとなった。
他人の不幸は蜜の味。
嬉々としてその甘味を堪能するような人がある。
取り繕ったところでそのような心根はネット回線の気安さのなか曝け出されることになる。
そのような者にとって他者の失敗は血の滴るステーキみたいなもの。
舌なめずりして頬張って美味い美味いと歓喜にむせぶ。
百歩譲って、実のところは冗談半分、軽い気持ちで発した程度に過ぎない言葉なのだとしても、火の用心ご用心、万一引火すれば火が火を呼んで、もとは軽い気持ちだったのだと笑って済まされないことになる場合だってあり得る。
仕切り取り払われた世界で悪口雑言が集積し見境なく押し寄せてくるような事態を想像してみる。
今は他人事であり、おそらくほとんどは他人事、しかし、何かの拍子に誰だって血の滴る肉片とされてしまいかねない。
なんとおそろしいことであろう。