KORANIKATARU

子らに語る時々日記

私の目の黒いうちは


蒸し暑い日であった。
電車で帰ろうとホームに向かいつつクルマにすれば良かったと後悔する。

涼しいはずの秋たけなわの頃合い。
どこも空調は控え目だ。
だから調子はずれの暑さに見舞われた日には、夏より暑いという現象が生じることになる。

ホームに立ち噴き出す汗を拭きつつクルマの快適を恋しく思う。

西明石行きの電車がやってくる。
幸いなこと車内は涼しいが、汗の不快が鎮まるまでは依然引き続き心地悪い状態が続く。
おまけに前にだらしなく腰掛ける大学生の二人組がアホ丸出しで足を放り出しているので、その足先に牽制され混み合う電車のなか窮屈なことこの上ない。

汗の不快の顰め面のまま、二人に視線を向ける。
ゲームに興じつつ会話する左手の青年はすぐに察知して行儀よく座り直した。
ところがシャツのボタンを乳首寸前まで開け広げ、ジェームズ・ボンドとは正反対、いかにも頼りないような、日陰で育ったひょうたんの蔓みたいなひよろひょろの胸毛を世間に晒している右手のアホはまだ気づかない。

と、ひょうたん胸毛の足が私のカバンに触れた。

彼を見る。
目が合う。
私は凝視する。

やっとそれで彼はすいませんと謝罪し、座り直した。
およそどこの大学が見当がつく。
その大学での流行りなのであろう、気色の悪い胸毛については不問とした。


帰宅すると食事の用意は既に整っている。
リビングで勉強している二男が手を止め、階上からは長男が降りてきて夕食の時間となった。

ドラゴン桜を全巻買ってあってカバンに入っていることをそっと告げるとその到来を心待ちにしていた二男が家内の目を盗み階下へ走り自らのカバンに詰替え、まるで練達の忍者のような足取りで気配を消して階上の自室へと運びこんだ。
搬入は成功した。

長男から聞かされる。
チーム両エースのうちの一人、フォワードの相棒が県代表として近畿大会に出場するという。
昨年、兵庫選抜は近畿大会を制し、全国大会では準優勝だった。

渡米の予定などあって長男は合流すら果たせずそれぞれ別の道を進む者となったがこれまでともに戦った仲。
固く結ばれている何かがある。
まるで自らのことを喜ぶように、そして、自らを鼓舞するかのように、その報を嬉しげに長男が話す。

前年の雪辱晴らし全国大会で優勝すれば、これほど誇らしいことはない。
彼の大活躍を家族皆で祈るような気持ちとなる。


食事を終えて家族おのおの別行動となる。
私はソファにねそべり映画を見る。
「ラビット・ホール」
ニコール・キッドマンが主演だ。

静かに物語が幕を開ける。
徐々にニコール・キッドマンが我が子を失くした母親だと分かる。
四歳の一人息子が、犬を追って道路へ飛び出し不慮の事故に遭った。
数ヶ月前のことである。

その哀しみを画面に見続けることになる。

私であれば耐えられない。
息子をあちこち探し回り、もしかして現れるのではと塾や学校の出口で昔のように待ち続け、いつまで経ってもその不在を認めることはできないであろう。
思い浮かべることすら苦しい。

少しでも生活が前向きに、精神状態が上向きになるよう夫は心を砕くが、ニコール・キッドマンはそれを拒む。
前向き?上向き?もうそんなことはあり得ない、と夫に対し語気を強める。

子を失くした会に参加するもそこにも救いはない。
神の御心について話が交わされ彼女は憤慨する。
御心?神はただのサド野郎ではないかと声を荒げる。

彼女の心にほんの少し穏やかな作用をもたらしたのは、母の言葉であり、事故の当事者でそのときにハンドルを握っていた青年の話であった。

母もかつて30歳になる息子を失くしていた。
いつか哀しみは消えるのか、と娘であるニコール・キッドマンは母に問う。
母は言う。

哀しみは消えない。
消えないが、それは耐えうるものに変わる。
のしかかる巨大な哀しみが、少しずつ少しずつ小さくなる。
ポケットのなかに入っている小石のように。
ふとポケットに手をいれるとその哀しみはいつでもそこにある。
でも、この哀しみも愛した息子が遺したもの。
だから辛いけれど持ち続けることができる。

ニコール・キッドマンは息子を轢いてしまった青年を町で見かける。
後をつけ、そして時折公園のベンチで話をするようになる。

青年は心から悔やんでいる。
あのとき別の道を通っていれば、あのとき少しスピードを落としていれば。

しかし、誰も責めることはできない。
不慮の事故であり、それはもう起こってしまったことであり、もはや取り返しはつかない。

青年はラビットホールというコミックを自作しニコール・キッドマンに手渡す。

宇宙は無限であり、無限であれば、確率的にこの地球と同じ世界が他にもあり得る。
無数の私がいて、ある世界では喜びに満たされ、またある世界では悲しみにくれているのかもしれない。
そのパラレルな世界をつなぐ通路がラビットホールだ。

ニコール・キッドマンは、どこか遠くの世界で幸福である自分もいるのかもしれないと想像し、そのとき映画のなかもっとも心穏やかな表情を見せる。


リビングの向こう家内は明日の弁当の支度に余念なく、二男は階下で風呂に入ってドランゴ桜を読み進め、長男は階上ですでに寝入っている。

平穏な暮らしを見渡しつつ、恐怖感が込み上がる。
そこらを浮遊しているのかもしれない不穏な何かを凝視しようとしてみる。

多勢に無勢、それらは想像以上の勢力擁して世にひしめいているのだろうか。
であれば個人の力ではどうにもならず、ひと睨みしてどうなるものでもないのかもしれない。

それでも私の目の黒いうちは、寄せ付けない。
来るなら私に来ればいい。
頼むから家族には手を出すなと乞い願うような気持ちとなる。

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