1
地下鉄南森町駅の階段を上がって地上に出る。
風が冷たく凛と締まって冬を思う。
年の瀬押し迫る頃の記憶がふと浮かぶ。
一年が終わろうとしている時期の天神橋筋の情景は趣きあって格別だ。
言葉交わさずともお疲れさんと互いを労うような空気に商店街が包まれる。
丸ごとまっさらな新しい年がまもなく幕を開ける。
ほっと一息つき、かつ仕切り直しのために心はやる。
最も幸福な時間と言えるだろう。
2
時間があったので天満宮に寄る。
老若男女とりどり、幾人もの方が真剣そのものといった表情で手を合わせている。
私も手を合わせる。
祖母から教わったとおりの仕方でお辞儀する。
非言語に属する何かとの刹那の交流。
自分のことなど話題にもしない。
子らのことだけ心に浮かぶ。
子を持つ前と後とでは大違い。
子らは手ぶらでやってきたのではなかった。
一言で表現するなら、夜が明けた、というようなものであった。
それまで根暗に生きてきたという訳ではない。
青二才が抱える価値観のうち、どうでもいいことは色褪せどうでもいいことになり、大事なことが一段高みにあがって明るく塗り替わる。
子を授かって、そのような心隅々まで清々しいような境地がもたらされた。
子らは様々なものを携えてやってきたのであった。
3
子らがやってきて可愛く、貧乏に甘んじている訳にはいかなくなった。
つべこべ言わず働いて、何が何でも何とかするしかなかった。
最後の一滴までなけなしの底力を絞り出すような奮闘が当たり前となった。
いま思い返しても、もうあんなことは無理である。
が、もしまた更に子を授かってその必要が生じたら馬力が出てくるのかもしれない。
子はいつだって手ぶらではやってこない。
そして、二十代では見向きもしなかったくせして神仏に手を合わせるようになり墓参りも欠かさぬようになった。
突き詰めれば、子を授かるというのは、何が何だかよく分からないような不思議なことである。
何が何だか全く分からないが、子の存在はあらゆる事象のうち最上位に来る。
これまた非言語の領域。
何だか分からないのだけれど、言葉を知らない原始人の胸のうちにも確かにあったはずの何かが疼いて、うう、ああと心が騒ぐ。
それは喜びのようなものであるけれど、同時に畏怖の念のようなものも綯い交ぜとなっている。
手を合わせるしかない、ということになる。
4
訪問先からの帰途、本町の紀伊国屋をのぞく。
「亞人」と「フラジャイル」の最新巻が発売されている。
それぞれ7巻と4巻を買い求める。
子らには黙って風呂の書棚に並べておくことにする。
あっと驚き喜ぶ子の顔を思い浮かべつつ混雑する地下鉄に揺られ事務所に戻る。
仕事を終え家までクルマを走らせる。
家の灯が見える。
車庫にあるはずのクルマがない。
家内は出かけたのだろうか。
あちこち電気が点けっぱなしのまま家はもぬけの殻であった。
玄関に長男と二男のかばんが投げ捨てられている。
拉致誘拐か、とアホな想像を巡らせているとまもなくもう一台のクルマが帰ってきた。
ドアが開き子らの声が聞こえる。
ドタドタと勢い良く階段を駆け上がってくる。
ラーメンうまかったで。
二男はわたしを見るなり言った。
腹痛い、食い過ぎた。
二男の後に上がってきた長男が言う。
学校からの帰途、同じ電車に乗り合わせ兄弟二人で今夜はラーメンと意気投合した。
それで家内を駆り出しラーメン屋まで運転させたのだという。
クルマに家内を待たせ散々食べまくったようであった。
その食べっぷりについて二人から話を聞きつつわたしの晩酌が始まった。