1
朝になっても雨が降り続いている。
屋内で過ごす一日となりそうだ。
リゾ鳴尾浜で泳いで走って温泉に入る。
今日日曜のプランをそう決め、シューズや水着の用意をし始める。
そのときはまだ雨があがったことに気づいていなかった。
長男がそそくさ用意しラグビーの練習に出かけていこうとする。
それで窓の外に目をやった。
晴れ間さえ見え始めている。
カーテンを開け放つ。
雨雲は去りつつあった。
2
京都に行こう。
家内がそう言う。
雨上がりの秋の京都。
その魅力に比して渡り合える場所などどこにもない。
京都までは一本道。
新快速に乗れば40分ほど。
目と鼻の先だ。
プランも何もなく手ぶら同然で、夫婦揃ってただ京都へと向かった。
3
紅葉真っ盛りの頃合いである。
京都駅は混み合っている。
人混みを避け地下鉄に向かう。
丸太町へ。
肉の名店「はふう」がそこにある。
まずは腹ごしらえ。
静か古い町並みを行く。
部外者にとってはただただ趣深い。
千年前からそこにあったと思わせるほど古式ゆかしいお屋敷から中学生風の少年が姿を現し引き戸に錠をかける。
同志社のカバンを持っている。
前に巨大船艦並の威容漂う外車が停まっている。
その助手席に少年は乗った。
ハンドルを握るのは母親だろうか。
ここは千年の都なのだと実感する。
ガツガツ必死の形相とは無縁。
いまなお京都は雅の地なのであり、盤石の正統を継ぐやんごとなき方々がそこかしこ息づいている。
4
「はふう」のカウンター。
牛炙りたたきと牛すきを家内と分け合って食べる。
噂に違わぬ美味しさだ。
店の雰囲気がとてもいい。
心落ち着く時間に身を預け、一口一口ゆっくりと味わう。
各地各所を夫婦で訪れ食事してきたけれど、ここでの昼食は私たちにとって選りすぐりの思い出となることだろう。
5
少し歩けば、京都御苑。
青空を背景とする広々とした空間を、紅葉が色鮮やか赤で染め、光を発しているかのような黄でイチョウが飾る。
降り注ぐ日差しは柔らかい。
日陰に入ると冷気が忍び寄って、底冷えする冬の情景を喚起する。
ベンチに腰掛け、「はふう」でテイクアウトしたカツサンドを家内と分ける。
挟まれたステーキがパンを押しのけるかのような存在感を放っている。
ひとくち食べて、夫婦で顔を見合わせる。
なんて美味いのだ。
子らにも食べさせたい。
夫婦で思うことはいつも同じである。
6
同志社大学を通りぬけ北へと向かい、鞍馬口で右へ折れる。
真っ直ぐ行けば鴨川に行き当たる。
路地に沿って左に振られ右に振られながらして歩く。
路地を抜け通りに出た。
濃密な光を帯びた虹が眼前に現れ、私たちは息を呑んだ。
まるで絵のよう。
コンパスを走らせたかのような円弧を描き七色の虹が鴨川にかかる。
虹に向かって歩く。
鴨川沿いを南へ進み、そしてまもなく出町柳に到った。
7
構内からはみ出すほどの行列にならんで叡山電車の切符を買う。
満杯の電車に揺られる。
もみじのトンネルに差し掛かると電車は減速した。
人に美醜があるように、もみじにも個体差があると知った。
見惚れてしまうほど美しいもみじがある一方、色合いも形も無味で無骨なもみじもあった。
色づくもみじを左右に見つつ、終点鞍馬駅に運ばれる。
8
牛若丸についての言い伝えを家内から聞きながら、参拝道を登っていく。
気軽に散歩がてらという呑気な道ではない。
ちょっとした登山である。
しかし健脚夫婦。
一糸乱れぬ隊列で前を行く人を次々と追い抜かす。
鞍馬寺本殿金堂で家内とともに手を合わせる。
家内が御朱印をもらっている間、鞍馬山を取り囲む四方の景色を眺める。
起伏に富んだ山々がはるか先まで連なっている。
牛若丸義経はここらを走り回っていたのだろうか。
圧倒的な霊気が時の流れを超え押し寄せてくる、そうイメージしこの空間に身を浸す。
心洗われるかのよう、なんて心地いいのだろう。
9
夕刻、京阪電車を使って京橋経由で家路につく。
ライトアップされたひらかたパークを左手に見つつ家内が言う。
子育てはたいへんだったけれど、もう手がかからなくなった。
また来週も京都を歩こう。
私はうなづく。
10
帰途、家の近所のスーパーで買物する。
ハイソでリッチに見える若い子連れ夫婦を幾組も目にする。
私たちが若い夫婦であった頃のことを二人して思い出す。
苦労が絶えなかった。
そう話しているうち家に到着した。
リビングで兄弟二人がくつろいでいる。
昼は二人揃ってたけふくでカツ丼大盛り玉子ダブルを食べたという。
家内が支度をし、夕飯。
家族四人で豚しゃぶを囲む。
私たちは昼は牛で夜は豚。
子らは昼夜、豚となった。
地理の先生がしたという雑談について二男が語り、長男も学校の先生や友人について語る。
食後、二人は映画を見るのだと自転車駆ってガーデンズへと向かった。
タイトルは「ビジット」。
ホラー映画だという。
兄弟が行動をともにする姿が、微笑ましい。
家内も喜んでいる。
そしてそうこうしているうち、やがて彼らも誰かと京都を歩くのだろう。
千年続く連れ合いを伴ってこその京都。
目に浮かべれば、ますますもって微笑ましい。