1
朝一番、まっさら新品の時間をどのように過ごすか。
仕事は段取りだけ終えて一旦おき、子らを思い浮かべてサラリサラリと日記を綴る。
子らはいま親という傘の下にある身。
その向こう側の景色について話す機会は限られる。
しかし、日記にすればいつの日かいつでも目にすることができるようになる。
例えばここ数日だけでも盛り沢山。
二男の腹痛について田中内科クリニック院長から電話をもらって家内は安心し、長男の留学にあたってはその予防接種についてタコちゃんにおんぶに抱っこ、そうこうしてる間に星光の大先輩からは子の飼育に欠かせない黒毛和牛を頂戴した。
傘の上、子らにまつわって様々な行き来がある。
そして、もちろんこれらはほんの一例であって、これらに留まらない行き来については日記に網羅されたとおりである。
読めば、子らを取り巻く鉄壁の見守りの構図が見渡せることになるだろう。
星のしるべとその仲間たちが、君たちを見守っている。
2
私という存在は、頭部があって胴体があって手足があってのカラダ自体というよりも、その内奥、探っても探っても手にとって見ることのできない何かである。
感じることができても、これだと指し示すことができるようなものではない。
しかし、言葉を綴ればその行間に「わたし」という存在の一端がパッと立ち現れる。
内奥の何かが海面から浮かび上がるように、言葉がその姿を誘い出し、一瞬生け捕りにすることができる。
言葉を束ねれば、つまり、このように日記を綴れば、私を入れる器であるこのカラダが無となったとしても、「わたし」自身の残像のようなものが随所に跡を留めることになる。
だからこの日記があれば、いつ何時、私が不慮の事態に見舞われてもすべてが失われる訳ではないということになる。
子らについて思う時、物理的にいつかは生じるその事態について考えざるを得ず、そのせめてもの解決策として日記を続けるというのは、気休めではあると知りつつも我ながらいい考えであるように思える。
3
そして、この痕跡は自身にとっても意義深く、余命長ければ長いほど、その意味を増してくるのだと最近思うようになった。
今はサラリサラリ書くだけのスケッチのようなものであり、サラリと行かない部分については端折ることになる。
しかし、いつの日か、私が人としての年輪を増し、かつ仕事についても若手に任せられる比重が増した時、すっ飛ばした部分について、本腰入れもっと深めて濃密に書けるようになるだろう。
いまの時点で千を超えるこれら走り書きは圧縮されたアーカイブファイルのようなものであり、来たるべき日、それらは空に仕込んだ花火のように日が暮れてのちもっと鮮やか展開されることになる。
その作業が老後にとってある、そう思えば、心躍って仕方がない。
つまりこの日記は、子らに語り残すことがないようその悔いを最小限にする役割を果たし、かつ、自らの老い先の楽しみの源泉にもなっているのである。
朝の新品まっさらな時間、一番大切なことに使えることが幸福だ。