1
こればかりは子にまだ見せられない。
何かを感じ考えるきっかけになる以前に、落胆の度が凄まじすぎてヒトというものへの失望を回復できなくなってしまいかねない。
数々の映画をこれいいよと子らに渡してきたが、「夜と霧」についてはしばらく保留とせざるを得ない。
たった30分の作品であっても、ここに凝縮された悲惨に対峙するには、もっともっと人についての良きことを吸収してからでなけれならないだろう。
そうでなければ、圧倒されてしまって毒にやられる。
1955年公開のフランス映画である。
ユダヤ人収容所跡地の光景から映像は始まる。
何ごともなかったように空が広がり、草が風になびく。
そのような平穏無事な現在の景色のなかに記録映像が織り交ざってかつての凄惨が振り返られる。
貨物列車にすし詰めにされ、胸に星印つけられた人々が収容所に運ばれる。
到着した時点で、貨車はすでに死体で溢れている。
そこで生き残ったところで、行き先が阿鼻叫喚の世界であることは変わらない。
全裸にされ屋外に立たされ並ばされる。
ついこの間までは日常の生活を送っていたに違いない。
人としての尊厳がむしり取られどこまでも足蹴にされていく。
床に穴が穿たれ無数に並ぶ。
それが収容所のトイレだ。
衝立も何もない。
肩寄せて向かい合って用を足す、といった寒々しい光景が目に浮かぶ。
病棟もある。
しかし、病気になれば殺されるだけであり、もしくは、意味もなく足を切られ手を切られ、毒物を注射されるなど人体実験の道具として用いられる。
石鹸を製造する過程の人体が無造作に並べられ、山積みとなった死体がブルドーザーで「撤去」される。
原型を留めない死者の顔がいつくも映し出される。
人毛で作られた毛布の質感が痛ましい。
ガス室の天井に残る爪痕が生々しく息が詰まる。
正視に耐えない。
身が竦む。
これはどんな映画よりも恐ろしい。
何かの間違いなのだとは思いたいが、これらは実際にあったことなのだ。
ヒトはその血に暴力性を秘め、きっかけがあれば容易くそれが発動してしまう。
ブレーキが利かず拍車かかれば平然と何喰わぬ顔でここまで至る。
ヒトのサガとして理解するしかないのだろう。
子らに渡すことはしばらく見送る。
しかしいつか必ずこの映画を直視しなければならない。
2
できることなら当たり前のように皆で暴力を蔑みたい。
そんなものとかかずらわずに過ごしたい。
しかし、こちらの生存が脅かされるようなことがあれば、目には目を歯には歯をと暴力性が発動するのはこれはもう血に刻印された性質なのであろうから如何ともし難い。
だからそんなことに至る以前に、ぎりぎりまで互いが平和志向を貫くのが、人としての叡智なのだと学ぶしかないのだろう。
道のりは果てしない。
小さな暴力は日常茶飯事。
街のあちこち、手を出す奴が絶えることはない。
その発動を制御できず恥じぬどころかドヤとでかい顔する輩も少なくない。
例えば私が生まれ育ったのは大阪の下町。
小さな頃、いきなり胸ぐらを掴まれて顔面を殴打されたことがあった。
自転車から引きずり降ろされ蹴り回されたこともあった。
目が合った、というそれだけの理由であった。
子どもであっても自らを守る必要があった。
ガラの悪い地域は叡智ではなく力によって統御される。
ブルース・リーみたいに強くなりたい。
そこで暮らす少年は誰もがそう夢見ざるをえなかった。
3
小学校高学年に差し掛かっては、カラダ頑丈でガタイよく、痛い目に合わされることなどなくなった。
しかし、依然として周囲は大人から子供まで魑魅魍魎に溢れかえり、血なまぐさいような事件は後を絶たず、力のない者は常に暴力に怯えなければならなかった。
暴力が支配するという文脈は普遍であった。
六年生になる春から阪神受験研究会に通いたいと親に頼んだ。
中学受験したのはひとえに暴力の世界から脱したいという一心からであった。
いっぱしの腕力を備えた私は、地元の中学に進めば暴力の矢面に立たされその洗礼を受けることが明らかだった。
サル同然の群雄割拠の地。
誰が一番強いのか、それだけが関心の的であるような土地柄であった。
運良く私はそこを脱することができた。
そこに進んでいれば全く異なる人生を歩んでいたことは間違いない。
少なくともいまの自分はなく、周囲のサル的な期待を自らのアイデンティティに内蔵して親を泣かせるような人間になっていたかもしれない。
親を泣かせるような話は伝え聞く誰かの話となり、私は当事者とならずに済んだ。
4
いま、そういった文脈とは無縁な世界で暮らす。
暴力によって自らを証す必要のあるヒトなど周囲に皆無だ。
しかし、昔とった杵柄、暴力についての嗅覚は衰えることがない。
暴力的なロジックを弄するヒトについてはその徴候が見えた段階で背を向ける。
用心に越したことはない。
長居すれば巻き込まれる。
油断すれば餌食にされる。
暴力にまつわる武勇伝については聞き流す。
すべての暴力は殺人未遂だ。
私はそう思っている。
人は簡単には死なないが、当たりどころが悪ければいともたやすく呆気無い。
笑って話されるような武勇伝に対しての忌避感を拭いがたい。
楽しく話せるはずがない。
暴力の地で育ったからであろう。
その怖さを肌身で知るし、その制御のないヒトに対しては信頼を置くことができない。
あちこちで暴力は見過ごされ、いまもどこかで誰かが大なり小なり足蹴にされて尊厳を傷つけられ声なき声をあげている。
エスカレートすれば、取り返しのつかないことに命まで奪われる。
いつなんどき誰の身にそれが降りかかっても何ら不思議なことではない。
何しろ、ヒトのサガ。
せめて、歯止めの弁が必要だ。
回避しようがないにしてもそれを加速させるのではなく減速させていくような感性を誰もが内在させなければならない。
暴力の不毛と悲惨について学ぶことがその第一歩となるのだろう。