押しも押されもせぬ関西屈指の難関校に進んだ知人の子について近況を耳にした。
学年が進めば勉強に本腰入れるのだろうと親は静観していたがその兆候は一切見られず、ヒゲすら生える年齢になってまで依然ゲームに入れあげているのだという。
ゲーム好きがゲーム好きを呼び、連れ立って学校帰りに各地のゲームセンターを転戦する。
ある種の部活みたいなものである。
ゲームセンターにもいろいろとあるようで種類ごとに聖地がありカリスマがいるそうだ。
聖地やカリスマについて語るとなると子の眼差しは様変わりする。
まるで神を崇めるかのように心からカリスマを崇拝し、聖地に対して厳粛なまでの敬意を払う。
聖地に身を置きゲームできるなど至福、そのうえカリスマの胸を借りてゲームできるとなればこんな光栄なことはない。
だから、ゲームを志すのであればカリスマの機嫌だけは損ねてはならない。
ゲームのカリスマは、芸能界のちょっとした大御所のようなもの。
力が支配する世界ではどこにでも見られる、例の世話焼ける種族の一種といえよう。
機嫌損ねれば無視され干される。
気に入ってもらえれば大事に扱われる。
そこはボスザルのロジックで編まれる世界。
歴戦の営業マンのように笑顔絶やずご追従も平気で並べ些細なことにも拍手喝采。
しかしものには加減が必要で、時折は強気でポーカーフェイスも気取らねばならない。
卑屈が過ぎれば逆に機嫌を損ね、ボスは上から畳み掛けてくるかもしれず、世のことわり、時に強い気を発していれば、そうそうたやすくねじ込まれることはないからである。
そのように細心の注意を払って一貫して感じ良く振るまい、覚え愛でたくかつ一目置かれる立場を目指すことがゲーム道の暗黙のコードとなる。
話を聞きつつ得体知れぬような気味悪さを覚える。
ゲームに不案内の者が口を挟むことではないのかもしれない。
私がその世界の奥深さについて何も分かっていないだけなのかもしれない。
所詮は人の手でプログラムされたような閉じた世界でピコピコと返すだけの単純な反応系の世界にしか思えない。
音響と画像の刺激で原始的な血沸き肉踊る何かが喚起されるのかもしれないが、それもとどのつまりは絵空事との戯れ。
競い合ったりすること自体が空虚であって、端から頭打ちの世界、そこで何か学びを得たり、成長が促されたり、何かに開眼し世界が拓けるといったようなこととは無縁であろうから、趣味であるにしてもこんな不毛なことはないではないか。
愛好者が増殖しコミュニティまで形成されるのであれば、ビジネスとしてこんな痛快なことはないのかもしれないが、費やされる無駄な時間を総和してみれば、功罪相半ばした話だと見えて仕方がない。
自由な時間がゲームに注がれるのであれば、貴重な資源をドブに捨てるようなもの。
幸いなことに我が家について言えば、ゲームの興に与る余裕自体がない。
ものは考えよう。
何やかやと忙しい時間貧乏にも日は当たるということであろう。