1
終点ですよ。
お客さん、終点ですよ。
車掌は私に向かって何度も声をかけていたのだろう。
車内に残っているのは私だけであった。
手にしてはずの本が投げ出されたように通路の上でひっくり返っている。
本を拾って席を立つ。
降りるべき駅はとっくに過ぎている。
私は終点まで何も気づかず眠り込んでいたのだった。
前倒しで動いていたので時間にまだ猶予はあった。
客先へと急がねばならない。
向かいのホームへと小走りで向かう。
それにしても経験したことのないような昏睡であった。
酔った以外でこのようになったのは初めてのことであった。
ふと思う。
きっと死ぬときはこんな感じに違いない。
これは一種の臨死体験とも言えるのではないだろうか。
いつの間にか意識が薄れ失われていく。
駅を通り過ぎ、本を読んでいたことなど思い起こされることもなく、もちろん本を落としても気がつくはずもなく、駅員さんの声も聞こえない。
まさに何事もなかったように、意識が無へと掻き消えていく。
なんと呆気ないことだろう。
2
昨年の今日。
仕事はしつつも気はそぞろであった。
中学受験本番の前日である。
子より親の方が張り詰めていたように思う。
いよいよ明日なのだと差し迫ったような緊張が波のように押し寄せ、きっと大丈夫だとそれを何度も押し返して過ごさねばならなかった。
渦中にあって目に入るすべてがストップモーションで動くかのようであった。
緊迫感によって意識は少なからず変性状態にあったのだろう。
それに対して子の方は平気のへの字の様子であった。
大一番の前には疲労を抜くのが何より先決と私は思っていたが、子らが通う塾は直前の直前まで押せ押せどんどんであった。
直前期もみっちり夜10時まで鍛えられ、前日も休むことなく夕刻7時過ぎまで演習が行われた。
子供である。
勢いに乗れば乗るほど学力が伸びる。
直前期こそ鉄は熱いうちに打ての最も「熱い」時期なのであった。
塾がその機を逃すはずがなく、寸前においても子はますます学力を伸長させ、おそらくは本番を通じてもその力を更に飛躍させたのではないだろうか。
つまりは、長く取り組んできた学びの最期の仕上げ、卒業演習が受験本番であったということができるのだろう。
3
電車で寝入る直前に読んでいたのは橘玲さんの近著「読まなくてもいい本の読書案内」であった。
学びざかりの男子二人を抱える父としてたいへん意義ある読書となった。
私たちが過ごした当時と何もかもが様変わりしている。
社会はサイバー化しそして知についても大きなパラダイムの変化が訪れている。
進化論をベースにした遺伝学、脳科学、進化心理学、行動ゲーム理論、行動経済学、統計学、ビッグデータ、複雑系などの新しい知が体系化され、個から社会に至るあらゆる領域において古びた知を急速な勢いで書き換えている。
それなのに日本の大学の文系学部は、一部の既得権を守るためか、使い物にならない古臭い学問にとらわれ続け、時代に大きく取り残されていく一方である。
時間は有限であり、人生は一回こっきりである。
いまやエセ学問となった領域に労を費やすなど無駄以外の何ものでもない。
今後、理系と文系の垣根は意味を成さなくなり、従来の文系の学問はその姿を大きく変えていくことになるだろう。
そのような内容であった。
たいへん分かりやすい、知の最前線のガイドブックと言えるだろう。
私は折り目をつけながら二回通読した。
子らが今後、学を志す上で何に的を絞るべきなのか、ポイントが把握でき見晴らしがよくなった。
子を持つ親ならば必読であろう。
4
夕刻、何とか仕事をやり切ったが疲労を覚える。
事務所には寄らず直帰することにする。
この日、仕事の最終地点は難波。
近鉄電車に乗ろうと改札をくぐる。
構内に一杯飲み屋があって目が留まる。
こんな日は熱燗だろう。
ちょっとほろ酔い、疲れを癒やし、そして帰途についた。