KORANIKATARU

子らに語る時々日記

塾の揚力によって支えられた広場のようなもの

先輩が言う。
息子らが高校生になって塾代がかさみはじめた。
中学時代の比ではない。
英語や数学だけでなくその他の教科まで受講する必要が生じ始め、合計すればその額は軽く学校の月謝を上回る。

先輩の息子らは関西屈指の名門私学に通う。
兄弟二人ともが塾に頼るとなると私学に四人以上通わせているような計算になる。
額を想像し私は開いた口が塞がらない。

かなりの経済力の御方であってもものには限度というものがある。
これはしんどい。
何十万円といった分厚い額が毎月欠かさずどっかんどっかん飛んで行くのだとすればその負担は悲痛とも言える。

ところが、それが特異な例ではなく塾に通うこと自体が端から織り込み済みのような学校の雰囲気なのだという。

悪い冗談を耳にしたような、薄ら寒さを覚える。
世の矛盾を感じざるを得ない。

府市の二重行政より先に、この矛盾をこそ解消すべきなのではないだろうか。

言わば、学校が朝廷。
単なるお墨付き機関のような存在と言えば端的に言い当てすぎであろうか。

そして実働を果たす役割は塾が担っているのであるから、塾については叩き上げの武士によって組織された幕府のようなものと喩えられるかもしれない。
そうだとすれば、古式ゆかしい和の二重構造がここにも潜在しているということになる。

何があろうと子には勉強をさせる。
そのように腹を括ったにしても出費を思えば親はたまったもんじゃない。
それに、学校にも塾にも時間をとられる子の方も、おれの十代を返してくれというようなものだろう。

学校で勉強が完結する。
そうであればどれだけ素晴らしいだろうと思うが、その当たり前から程遠いのがわが国の教育システムの有り様のようである。

学校自体に高度な内容の勉強を期待できないというのがまずもって変な話だ。

先輩は言う。
学校は競争の旗振り役であればよく、友達らとつながる場でありさえすればいい。
余計な干渉のないほうがむしろ有り難い。

名門校についての一面の真実がここで明らかとなる。

学校の存立を支える入口の部分で塾に依存し、出口においても塾に依存する。
つまりは、広場。
塾の揚力によって支えられた広場のようなもの、というイメージが浮かぶ。

塾を凌駕する学校、塾を遠景に押しやるほどの力を持った学校。
そういう存在はどれだけあるだろうか。

雅な雰囲気の公家様が武士に勝てるという風には思えない。
たいていの場合、学校だけで完結するというのはやはり期待薄な話でしかないのだろう。

このように日本の教育は塾があってこそその手堅い品質レベルが維持されていると言うべきなのであろう。

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