1
オデッセイは面白かった。
今年観た映画のなかでベストだった。
食卓に腰をおろすわたしに向かって二男が言う。
たけふくでかつ丼を食べてガーデンズで映画を見る。
もちろんポップコーンを携えて。
彼にとって最良の過ごし方。
日曜の時間の使い方について彼なりの秩序が定着し始めている。
自由な時間がある、となったときにどう過ごすか。
野山を走ったり泳いだりゲームしたりパチンコしたり散歩したり、あるいは惰眠貪るなど時間の使い方は各人各様でその仕方が個性の素となる。
映画を見るというのは悪くない。
2
鍋の下に敷く新聞を広げつつ今週の主だった記事について取り上げ二男と話す。
目を通すべき記事については選り分けクリップバインダーに挟む。
入浴時にでも読めばいい。
このところは朝日新聞を買い続けている。
論調はともかく良き文章との出合いという点で言えば朝日が群を抜いている。
情感あって味わい深い文章に天声人語でお目にかかることができ、隣接する折々の言葉についても子の感性を耕すのに格好だ。
附随して時代の空気伝える数々の記事があって、今週では非正規ミドルの苦境を伝える記事が子には鮮烈であったようだ。
その他、福岡伸一さんの科学と言葉というコラムがなかなかの含蓄、それに佐伯啓思さんの「われわれの価値は何か」という論述においてはまさに文字通り目が開かされた。
「力が作用する国境線の背後には価値の国境線がある」という箇所にわたしは太く線を引いた。
3
しかし、玉に瑕なのが週刊誌の見出し広告。
精力剤の広告については笑って済ませられても、週刊誌の方は下品にもほどがあって開いた口が塞がらない。
そんな言葉を子の前であからさまにするような種族とは付き合いがないので、それが食卓で開け広げになるような不躾に困惑してしまう。
そういったキャッチコピーを綴る人はどのような気持ちなのだろうか。
下ネタワードを頭のなかで朝から晩までぐるぐる巡らせているのであろうから、なんだかとても気の毒なことにも思える。
きっと虚しいことである違いない。
目障りなので鍋の下にすら敷けない。
見て何か足しになるわけでもない。
丸めて捨てることになる。
目くじらたてる気もないが、その開け広げな露骨さが下品過ぎ一見するだけで気が沈む。
4
そして季節の風物詩。
何かの一つ覚えのように塾が合格実績を紙面で声高にしている。
実情知る者からすれば苦笑禁じ得ない、思い込みを誘発させるような代物でしかない。
が、年々エスカレートし性懲りもなく続けられる。
宣伝なのであるから避けられない。
購買者を募るのにはこれが最適。
いい話を真ん中前面に出すのが鉄則だ。
合格者数はその最たるもの。
見る側も無意識裡、景気いい数字を有難がる。
そのような意識が潜在しているのであるから、塾においては児戯に等しかろうが自画自賛に遠慮は無用。
史上最高、輝く栄冠など大はしゃぎ、節操なければないほど、親の心は安寧に至る。
たかが中学入った程度に冠マークほどこす大げさに眉をひそめる向きもお見えのはずだが、必死の心持ちとも言える当事者の立場で考えてみればごく自然なことなのであろう。
もし正直に、「人気の学校には定員があってどこも狭き門であり、うちの塾でどれだけ勉強しようが、ダメなものはダメ、大半は希望の学校に通らない」と味も素っ気もない真実語れば、入塾を考慮する以前に意気消沈してしまう。
つまりは、期待感を膨らませ、心の安心を売るのが塾の本質。
そう心得た塾は迷わず、数字を飾る。
数字がすべてで、あばたもえくぼ。
えくぼの秘密は語られない。
それが世のため人のため。
さらに塾の売上にも直結するのであるから、いいことずくめということになる。
矛盾は見て見ぬふりされ、互い持ちつ持たれつ。
親はご利益にあやかろうとし、塾はお金を得る。
そして、いずれ結果が出るにせよ、投入される物量は並大抵のものではなくその労を否定するのはあまりに悲痛なので、逡巡の果て、これで良かったのだ、塾のみなさんありがとうと感謝されることになる。
だから毎年、誰憚ることなく、数字が躍る。
数字の舞台裏にまで足を運んで切り込んで本質に的を絞って考える人はいつだって少数派だ。