かつて少年の頃。
野球選手になるようなことを夢見たこともあった。
野球は下手でも空想の世界では大変身。
逆転ホームランを放ってインタビューを受ける。
気取ったように答え、ファンの声援に対し手を振る。
そんなシーンを想像し、ひとりご満悦となったものであった。
幾年月。
野球とは無縁も無縁、書類と格闘する稼業にいま身をやつしている。
性に合っているので、まあ悪くはないが、声援を送られることはなく、だから当然、手を振ることもない。
時折は思い出す。
夜眠る時の空想は、大飛球かっとばす史上最強スラッガーである自分の姿であった。
当時ですら現実味がなく、いまなら尚更現実味ゼロの絵姿なので、そのような空想に揺蕩うたこと自体が面映ゆい。
40代中年となった現在の寝床の空想は、かなり現実チックな、つまり夢とは言えないような、遅かれ早かれ実現できそうな世界旅行程度に胸おどらせるといった有り様なので、ずいぶんと小さく小さくなっていくものである。
ふと、ひょんなことからインスタグラムやブログなど、どこかの女子らの自撮り画像などを目にし、どういうわけか、自身の少年時代のインタビューシーンを思い出したのだった。
わたしがファンの声援を一身に集めるスラッガーであったように、彼女らもきっとそれぞれの内面において世界の中心を占める存在であったに違いない。
翳りあるような微笑みや粋な雰囲気のポーズや澄ましたような仕草は、まさにわたしが空想のインタビューの際にした取り繕ったような態度と同種のものである。
つまり、それら自画像はすべて彼女たちの自己成就の姿であると言えるのだろう。
そうであるはずだった姿が、形となって念願通り多く人目に触れる。
場があってこそ、満開の花を咲かせる甲斐もあるというものだろう。
そう思って見れば、一つ一つがとても愛らしいものに思えてくる。
そのように愛されるはずであった姿が、少女の頃の夢が、そこで叶えられているのである。
皆が皆、幸福でありますように。
それら数々の自画像をスクロールしつつ、かつての野球少年はとても優しい気持になっていくのであった。