少し歩けば着衣が汗で肌に粘着する。
日差し強く無風。
不快極まりないほどに蒸し暑い大阪がまた帰ってきた。
しばらくはこんな調子の気候が続くのだろう。
長引けば霜月にまで及ぶほど大阪の蒸し暑さはねちっこい。
直射を避け日陰に入ってもべっとりぬるい空気がまとわりついてくる。
地下街へと避難するがそれも詮無いことであった。
場所は梅田。
海外からの観光客がやたらと目につく。
カオスのように飛び交う肉弾に彼らは面食らっている風に見える。
彼らと同様、私も旅人になったつもりで、極東の街の一角を薄目で見回してみる。
しかし何の感興も湧いてこない。
わたしにとって梅田の雑踏はあまりにも見慣れた光景であった。
ここがわたしのホームタウンであって日常の場。
縦にしようが横にしようが面食らうなどできるはずがない。
電車を使って北へと向かう。
途中の乗り換え駅でようやく人がまばらになって息が楽になる。
前にご老人が腰掛けている。
横に女性が座って老人のカラダを支え介助している。
最初わたしはその女性をご老人の娘か何かなのだと思い込んでいた。
しかし、違う。
娘がそんな風に父親にカラダを寄せはしないし、そんな風にフェザーな感じでカラダにタッチしたりなどしない。
わたしは想像を働かせる。
ご老人が足繁く通った飲み屋のママさんといったところだろうか。
女性はどこか地方の出身なのだろう。
言葉に方言が入って訛っている。
体型はムチムチで、かなりのお酒を吸い込んできた暮らしぶりが窺える。
しかし、注意深く聞き耳を立てて分かった。
訛りは訛りでも、石川啄木が歌ったような『故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く』の類の訛りではない。
これは外国訛りだ。
花柄プリントの小粋なシャツ着てご老人の身なりはいいが、目は焦点を結んでおらず口も半開きである。
すべてが明瞭に見える昼日中、そこだけが虚ろで上の空といった様子であった。
だから、そのアジアの女性がするミュージカルの話など、どこにも届かず虚空に消えていくだけのことであった。
キャッツやらライオンキングやら、ちょっと気取ったようなその女性の発音だけが何だかとても肉感的で、ご老人に感知できるのはどうやらその肉感だけのように見えた。
眼前の一場面だけですべての事情が察せられた。
電車が終点に着く。
緑生い茂るこの一帯の空気は柔らかく香って、微か含まれる冷気が肌に優しい。
わたしは電車を降り着信あった電話に折り返す。
呼出音を聞きながら、先を歩くその二人の背を見つめる。
ご老人は女性にカラダを預けるようにして杖をついて歩き、場違いなほどに着飾ったその女性は嬉々として見えた。
人生9回裏。
もはや投げるボールに力はなく、どうあろうと打ち返される。
どのみち誰だって同じこと。
いつかは、みんな9回裏。
いくら優位に試合を進めても、豪腕振るって周囲を唸らせても、最後の最後には誰もが命運尽きてサヨナラ負けを喫することになる。
枯れゆく最後に誰と過ごすのか。
優しくされのるならば誰だっていい。
それが人情というものだろう。
しかし枯れれば枯れるほどに喜ばれるというようなことも世間では少なくないようだ。
最後の最後、待ってましたとばかり誰かが不気味にほくそ笑む。
そうであれば、とても悲しく無念なことであるように思える。