時折は苦境に陥る。
四十を過ぎても平坦で楽な道ばかりではない。
若い頃ほどではないにせよ厄介事の絶えることがない。
苦境に訪れられる度に思う。
もとをただせばおそらくは自分が撒いた種。
自らの力不足が原因であり、どこかにスキがあったに違いない。
それが巡り巡って自分に返ってきただけのこと。
相撲で言うところの上手を取られたみたい、力関係の風下に置かれて無力に打ちひしがれることになる。
自分の一存では打開できない。
あれこれ心を砕きもがいて手足動かすが、しかし決定権は相手にある。
このもどかしい受身をこそ苦境という。
自営業であっても完全な自給自足とはいかない。
大国の胸先三寸で命運左右されるしがない存在だ。
だから自営業であっても、まるで勤め人みたい、誰かの顔色を窺うといったことを余儀なくされることがある。
愉快なことではないけれど仕方ない。
このようなときは心置きなくヘタレとなって観念するだけのこと。
ムキになってもジタバタしても、上手を取られているのだから屁の突っ張りにもならない。
無念ではあっても平静を装う。
それがせめてもの意地となる。
まさに不徳の致すところ。
その原因となった過去を省み、黙って耐えて忍んで、そこから謙虚に学ぶしかない。
捲土重来を期し次に備えて目を見開く、それくらいしかできることはないのである。
そのように苦境について考え過ごした金曜日、夜は一人自室で恒例のロードショー。
手にしたDVDは「サウルの息子」であった。
昨年のカンヌでグランプリに選ばれたハンガリー作品だ。
舞台はアウシュビッツ。
主人公はそこで死体処理の労役に服すゾンダーコマンド。
いずれ自らも殺される運命だ。
映画はシャワー室のシーンから始める。
老若男女様々織り交ざったユダヤ人が貨物で運ばれてくる。
彼らをシャワー室へとゾンダーコマンドが誘導する。
ドイツ人官吏がユダヤ人たちに言う。
早く服を脱げ、シャワーの後はスープだ。
さっさとしないとスープが冷めるぞ。
我々は労働力を必要としている。
手に職のある者はシャワーの後で申し出るように。
映像を見つつ誰もがその空々しい科白に背筋凍る思いがすることだろう。
彼らが詰め込まれる部屋はシャワー室ではない。
わたしたちの誰一人としてそれを知らない者はないだろう。
まもなく壁を叩く音、耳をつんざくような悲鳴が聞こえる。
「処理」が終わればゾンダーコマンドが中へと入り、折り重なった死体を焼却場へと運び、そして灰を川へと捨てる。
主人公に密着したようなアングルですべての場面が捉えられ、現場でそのシーンに間近立ち会っているような臨場感が迫ってくる。
冒頭のシーンだけで、そこが極限の苦境の場であることが十分に理解できる。
自らが撒いた種だとか因果応報だとか上手を取られたといった、脳天気な方便の付け入る余地のない、絶対的な苦境である。
ガスだけでは絶命しない少年があった。
息も絶え絶えの少年をドイツ人官吏が口を塞いで殺害する。
一部始終を見ていた主人公が、その少年を自分の息子だと言い始める。
少年をきちんと弔うため、死体を運び出し自分のねぐらに安置する。
そして、収容者のなかから司祭であるラビを見つけ出そうとする。
その間も、大量に運ばれてきたユダヤ人がシャワー室に連れられ無慈悲に殺され続ける。
収容所に運ばれてくるユダヤ人が増え過ぎて「処理」が追いつかない状態となれば、穴が掘られ手っ取り早くその場で次々に射殺されていく。
そこには、弔いなど微塵もない。
目を背けたくなるような「処理」があるだけだ。
尊厳踏み躙られる人々の最後の場面を目にし続け、人間だけがする「弔う」という行為について観る者は考え始めることになる。
そして「弔う」という語を取っ掛かりにして、生きて在ることの意味を直感する。
真っ裸にされ情け容赦なく殺される誰しもが「語られるべき誰か」であるはずである。
誰一人例外なく家族があり、一人の人間としての人生がそこにあった。
そこには様々な人物と交差して織り成されてきた個の歴史がそっくりそのまま詰まっている。
それらが一顧だにされず十把一からげで呆気無く殺される。
そんな風に扱っていいはずがない、そこにあるのは人間だ。
すべて全員が、語られるべき厳粛な存在であり、記憶されるべき唯一無二の存在のはずである。
だから人間だけが死者を弔う。
弔うことによって、その者を永遠の時間軸において語られるべき存在へと昇華し、その者についての記憶を皆で共有する。
人は誰しもが語られるべき何かであり、記憶されるべき何かである。
だから生の終着においては誰もが弔われるべきなのである。
映画によって人という存在のかけがえのなさに思い当たり、そのような深い理解に至る。
そして主人公らは悲痛なラストを迎える。
悶絶するほどの苦境のなかにあって、その日々を言葉として残したゾンダーコマンドの尊厳に敬意を払い、その無念を深く悼むような思いとなる。