淀川花火大会が開催されるため大渋滞となる2号線は避け43号線を通って帰る。
昨年は家族で花火見物に出かけたが一度目にすれば十分。
記憶のなか鮮烈なので、あえてまた人混みのなかに入ってまで目にしたいとは思わない。
帰途、なんだかとても気分がいい。
たこ焼きを食べたいと子から連絡があり、大阪ナンバーワンの名店かもしれない風風のを買ってあった。
ソース、しょうゆ、しお、の3つのフレーバーを取り揃え、もちろんねぎも忘れずトッピングした。
子らが喜ぶ顔が浮かんで、それだけでわたしはとても幸福な気持ちになる。
わたし自身はたこ焼きに手をつけるつもりもないし、興味もない。
しかし子が喜ぶ、という間接的な作用でもってたこ焼きはわたし自身の喜びともなった。
家内にはちょっとした刺し身盛りを買い、当然ワインも調達している。
少しくらいは喜んでくれるだろう。
そう思うと、少しくらいはわたしも嬉しい。
独り身では分からない。
この間接話法的な持って回った喜びの方が、直接的な喜びよりも幸福感にもたらす効き目は大かもしれない。
先日、ソファで寝入って夢を見た。
昔の住まいが舞台であった。
幼稚園に子らを送り出す時間。
二男の支度は整っている。
いつも手を焼かせるのは長男だ。
二階へとあがって、その姿を探す。
ベッドに寝転がり一丁前に読書にふける長男の姿を見つける。
その様子が可愛くて、これはもうポケモン見つけるよりはるかに心満たされる。
夢のなかでも家内は子煩悩であり、手作りの弁当バッグに手作りの弁当をもたせて、二人を送り出す。
二人が何度も振り返ってこちらを見る。
昔から、出会った当初から一貫して彼らは愛くるしい。
そんな親バカ特有の夢を反芻しつつクルマ走らせ、家へと向かう。
そこには、子煩悩で家族思いの家内があって、寸法増して巨大化一途の小僧二人が控えている。
この帰途の数十分。
人生すべてがオッケーというとても大らかな境地が引き続いた。