KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ああ哀れ、悪口雑言の氏育ち

日差しの強さが尋常ではない。
肌が焼かれる、という言葉が比喩とならない。
まるで突き刺さってくるかのよう、身の危険すら覚えるほどの凄まじさだ。

こんな熱射が降り注ぐ炎天下、甲子園で野球しているなんてどうかしている。
と思いつつ、わたしは午後休憩として汗を流すことにした。

湯船は極楽であった。
ひと肌の冷泉につかってカラダの熱をさましていく。

力を抜くと伸ばした足が浮き上がる。
さぞ効能豊かな泉質なのであろう、湯触りだけでなくその浮力も心地いい。

脱力し身を任せ湯に心あらわれ思い立つ。
まもなくお盆。
日記にあったちょっと険のある表現は正しておこう。

根っから穏やかな性分である。
周りに当たり散らして精神のバランスを取るようなタイプではないので、ちょっとした弾みで書いた悪口であっても、後になって思い返すとつかえのようになって心が晴れない。
気に揉みはじめるとビールまで苦くなる。
第一、当時の感情は極限まで希薄化しているので、それが残ってあることの意義がない。

それで悪口のための悪口のような、卑しく浅ましい言葉遣いの箇所をすべて一新させることにした。

帰途の電車のなか思い当たる箇所に目を通していく。

時間を置いて読み返せば、悪口雑言の氏育ちの劣悪さが手に取るように理解できる。
要は、求める愛を享受できず育った者の支離滅裂な怨嗟のようなもの。
悪口の本質はその一語に尽きる。

願い叶わず誰からも大切にされなかった者には寄って立つ場所がない。

恨み辛みくらいしか内的な資源がないので、それを放つが、しかし、何事も作用があれば反作用があって、繰り出したパンチは力み過ぎの大振りとなって空を切り、カウンターとなって自分の顔面またはボディを強打することになる。

つまり悪口はたいていの場合、自分を傷つけることになるだけのことなのだ。
仮に社会の足しにでもなるようなものであれば報われもするが、そうでなければ傍迷惑な自爆行為の類としか言えないことになる。

それに誰かのことを悪く思い続けるのは、しんどいことでもある。
時は経過し局面は変わる。

どれだけ腹が立っても、時間が経てば、その非の箇所は濾過され薄れ、消え去っていくようなものであり、異なる観点も浮かんで状況を客観視すれば、何事も一概には言えないとなって、評価も相対化されていく。

よほど性根据え、日々心新たに恨みを刷新し続けるという意気込みでなければ、必ず風化する。
そこに生涯捧げるに値する何かがあるのでない限り、流水の作用にされるがままの万物の定めのとおり、さっさと水に流してしまうべきであろう。

そして、裏を返せば、人をよく思って過ごすことほど幸福なことはなく、人を大切にする言葉遣いを心がけることが内面の平穏を保つ最善の仕方であるということが浮き彫りとなる。

他者に向ける思いや言葉が、相互作用となって自らの世界を形成していく。

誰かを悪く思ってそう口にすれば、相手を害すだけでなく自らも害することになる。
だから、もし誰かに悪口を向けられる立場になったとしても、同じ調子で応じたのでは、互いもろとも奈落に転げ落ちていくようなこととなる。

まもなくお盆。
ご先祖さまに手を合わせ頭を垂れて、悪心追い払ってもらうよう助力を乞おう。