飛行機が小さいからだろうか。
ランカウイからクアラルンプールへの帰途の空路も頻繁に飛行機が揺れた。
雲間の向こうに目をやれば、同じ目線上に星々が鮮やか瞬き、その大きさは地上から見るのと比べ物にならない。
下方には漁船がひしめくように点在しそこにもまた星空があるかのような錯覚を誘う。
盛んな漁業もまたこの国の地産地消を支える大きな柱となっている。
今回マレーシアを訪れて食べ物の美味しさに感嘆したのであったが、当地で採れた新鮮な食材にきちんと人の手が加わって料理がなされるのであるから当然であろう。
そして時折、飛行機が揺れ我に返る。
周囲を見回してみる。
揺れることなどなんともないのであろう。
本を読む人は熱心に読み続けるままであり、陽気に話す人の表情に影差すこともなく、乗務員らの笑顔も一貫している。
そのような様子を目にすると相変わらず揺れたままであっても、揺れの解釈が変容していく。
きっと大丈夫なのだろう。
揺れが日常の光景に同化していき、わたしの気持ちも穏やかさを取り戻していく。
その一方で想像してみる。
誰しもが強固な日常性のなか過ごしていて、日常の引力は強く太く逞しく、たいていの場合、飛行機が揺れたくらいで日常は揺らがない。
しかし、まれに、ほんとうにごくまれに、日常的な装いのなか異変が潜んでいて、突如、思っても見なかった事態に見舞われる、ということが起こり得る。
すべての事故や事件や天変地異は、日常の連なりの先で生じたことであるはずなのだ。
だから、頑丈なはずの日常に亀裂が入っても即座には呑み込めず、本に読みふける人は熱心にページを繰り続け、会話に興ずる人は明るく楽しげなまま、そして乗務員は引き続き笑顔のまま、あれと首を傾げ、何かおかしいと気付くまでに多少なり時間差といったものが存在することになる。
飛行機が再び揺れる。
どうか無事にたどりつきますように。
祈るような気持ちになってくる。
そのようにしてクアラルンプールへの1時間の空路の移動を無事に終え、引き続いて今度は大船も同然、ジャンボジェットで6時間、大阪の地に無事足をつけることができた。
主の帰りを待つように愛車が駐車場に佇んでいる。
家族の一員のようなものである。
クルマ走らせ家へと向かう。
アクセス最高、あとは阪神高速湾岸線をまっすぐ進むだけ。
朝の通勤ラッシュの時間帯に重なって、いくつもの箇所で徐行を余儀なくされるが、その度毎に、日本にいるのだという日常感が強く戻ってくる。
今回の旅を通じ、自分自身の日常に深い愛着のようなものを覚えた。
わたしはどうやら自分の日常をかなり気に入っている。
日々の惰性のなか感度鈍ってそのありがたさにわざわざ思い当たることはなかったが、ますますどんどん若い頃に思い描いた日常が実現しているのだと気付くことになった。
自分の生活リズムや住む場所や仕事の在り方や人間関係、そして家族、いい感じである、悪くない、満足だ。
逆説的だが、旅という非日常に身を置くことで、客観的に自分の日常を再発見できるのであろう。
新鮮な目で自分と自分の場所を再認識できる、という以上のリフレッシュはない。
だから、旅に出るなら行き先は非日常性の濃厚な場である方がいいだろう。
そこそこ遠く、かつ、同胞の少ない場所、というのが条件となるだろうか。
わたしだけでなく、子らにとっても得るもの多い良き旅行となったはずである。
彼らもいずれ、生活を背負う者としての日常を生きることになる。
フィットする日常がどのようなものであるのか。
答えは日本では見出だせないかもしれない。
そんなときには、外に身を置いてみるというのも一考だろう。
星でさえ見え方が異なってくるのだ。
クリアさ増して見えてくるものは決して少なくないはずである。