KORANIKATARU

子らに語る時々日記

天与のチューニングは変えられない

勧められるまま軽く一杯飲んだだけなのに帰途風呂に入って目が回った。
寄る年波、ということなのだろう。

タクシーに乗るのも億劫でかつ近所のホテルは会員になってはいるがこのところ部屋の取れた試しがない。
事務所で一休みしそのまま寝入ってしまった。

ふと夜中に目が覚め、先日観た「黒い瞳のオペラ」の映像がよみがえった。

これといったストーリーはなくセリフもない映画である。
幾人かの登場人物の日常が映し出され続ける。
マレーシアの湿度と匂いとともに、そこに在る「人」というもののリアリティが画面を通じ伝わってくる。

人、というものについて目を凝らして見ることになって、惹きつけられる。
存在することの孤独、奇橋さ、不可思議、哀惜そして時折垣間見える美が見事に映像として捉えられている。
身震い避けられないインパクトを隠し持つ映画である。

そこで描かれた闇のようなものに、わたしたちも取り巻かれている。
事務所で一人そう実感する。

そして朝となった。
ブラインド越しに陽が差して、先日、機内で迎えた朝の場面が夢か現か眼前に浮かんだ。

まるで2001年宇宙の旅といった黙示録的なシュールさで機内が照らされ、そのときわたしは気づかされた。

一夜明けた機内はまるで楽屋裏のようなものであった。
飛行機に乗り込む前に見た様子と後とでは、様変わりしていた。
美しい人たちは依然として美しく、どうやらそうでなかった人たちはやはりそうではなかった。
朝の陽が遠慮会釈なくそう告げ知らせていた。

わたしたちは所与のものを愛すべきなのであろう。
見渡せばいかんともし難い差が歴然だ。
闇をくぐり抜けてさえ楚々とみずみずしい沃土があり一方で寂寞とした荒れ地もあって、覆いを取ればその人そのものが有する美が表情を通じて透けて見えるのだと視認できた。

わたしが醜男であるせいで君たちはハンサムというよりは少しばかり愛嬌のあるような顔立ちとなったが、男なのだからそれくらいのことは仕方のないことである。

何をどうしようが属するカテゴリーは変えられない。
ノギスの主尺の部分は天与のもの。
せいぜい副尺の誤差程度についてのみ人為が及ぶ話だろう。

外面含めて内面も、生まれ出た際すでにチューニングが済んでいる。

汝自身を知れという言葉が名言の筆頭に挙がるのは、要は自らのチューニングを知ってそれを活かすのが人生であるからだろう。

そして自らのチュニーニングは小手先のテクニカルなあれこれでどうにかなるものではない。
もし自在に操作できると言うなら詐欺まやかしの類の妄言と見るべきだろう。

わたしはわたし。
そう結論出して、清々と人生と渡り合うことが大事だろう。
自分の根本的な部分は変えられないし、もし変えられたとしてもそれは幸せなことではないかもしれない。

例えば、朝が苦手な人がいて、どうしても起きられない。
何度試みても無理である。
であれば、早起きする努力をするよりも、起きられない人間だと結論出して、それを前提にではどうするかを考えたほうが、そもそもの目的に肉薄できるはずである。

その人については早起きするために生まれた訳ではないということであり、無理を重ねて早起きしても、朝から人生暗黒という苦しい話になるだけのことだろう。

早起きできるできないという前提の次元で足踏みし続ければ話は前に進まない。
さっさと、早起きはできない、しない、と決めてしまった方が戦略的だ。

例えばわたしはご飯好き。
減らそうと試みたこともあったが無理であった。
だから結論づけた。
ダイエットはわたしのすることではない。

だから食べて構わない。
その分、たまに走ればいいし泳げばいい。

もはや迷いはない。
吹っ切れて余計なことを考えずに済むので身も心も楽である。

付け加えれば、対人関係でも同じこと。
この人とは合わない、この人はダメだと感じれば、もうそれは仕方のないことと諦めるのが賢明だ。

自分を変えることさえ困難なのに、その人を変えるなど土台無理な話。

そう試みること自体無駄であるし、かえって苛立ちや怒りが募って、逆効果となる。
そんなものだと割りきってそれを前提に、ではどう付き合うかを考えるほうが合理的で精神的ロスは少なくなるはずだ。

本筋とは異なることで振り回されて時間と労力を消耗するより、自らのチューニングに則った生き方をしたほうが楽しくて心地よく充実感も優るに違いない。