KORANIKATARU

子らに語る時々日記

過去は文字通り過ぎ去った

土曜日午後すべての用事を終え、あとは長男を待つだけ。
彼に渡すものがあって最寄り駅の改札で待ち合わせるがまだ2時間もある。

それでひとり映画を見始めた。
「タイガー伝説のスパイ」。
インド映画にしては短め、2時間ほどで見終えることができる。

単なる娯楽映画と侮れない。
映像が凝っていて美しくかなり洗練度高い映画である。
印パを巡る政治的摩擦関係についても少しは理解が深まる。
強く魅せられわたしはたちまちのうちに引きこまれた。

歌って踊ってヒロインは超絶に美しく、アクションはド派手痛快、手に汗握って随所で笑えて、ハッピーエンド。
以前にも書いたが、インド娯楽映画の癒やし効果は相当なもので人生観がシンプルにリセットされて見終えて得られる爽快感がクセになる。

しかもこの作品では主人公とともに世界各地を経巡り歩いてその風光明媚を堪能できるのだからちょっとした旅行の要素さえある。
インド映画といえばダンスであるが本場キューバで踊る演出にはまさに胸躍った。
そしてもちろん作品の成分中に恋愛成就を追体験できる構造が内在されているから、まあ、誰だって心惹かれてかつ忘れらない映画体験となる。

二男にも薦めなければならない。
惚けたような顔で必見だよと付箋にメモ書きしていると、メールが入った。
2時間などあっという間である。

長男に渡す書類を確認しそこに日曜のタイガース戦のチケットを友達の分も加え駅へと向かった。

電車到着まであと3分というところで改札に立つ。
もうまもなく長男が駆け下りてくる。
改札越しに父子向き合うひとときを過ごすことになる。

とそのとき、わたしの前を一組の母子が通り過ぎた。
見覚えのある顔だ。
忘れるわけがない。

わが町の駅前にコンビニがある。
その昔、そこの店員だった女性だ。
やたらに通る声が特徴で、その声を一度耳にすれば声の主を確かめずにはいられず、独特の風貌は一目見れば誰だって忘れない。

当時長男は小学2年生。
虫採りに明け暮れる未開のサルそのものであったが、何でもいいから少しは机に座る訓練をさせようと近所のそろばん塾に通わせていた。

そろばん塾への通り道にコンビニがあって、長男はちびっ子のくせして常連の客だった。
毎回の行き帰りに気軽に寄って気さくに店員と話をしトイレも自由に使っていた。

その女性店員の存在については、幼い長男の目撃談として聞いたのが最初だった。
話半分で聞いていたわたしであったが、実際はじめてその声を耳にした時は、衝撃を受けた。
狭い日本である、何もそんな甲高い声でレジを打つことはないではないか。
そう思ったのはわたしだけに限らなかったはずだ。

しばらくの間、地域の名物で在り続け、しかしあるとき彼女は忽然と姿を消した。

それから7,8年。
その彼女が子を連れていま目の前にいる。

絶妙のタイミングである。
このまま行けば、長男と彼女は数年のときを超えて顔を合わせることになる。

ちびっ子だったかつての常連は変貌を遂げすぎて誰が見たって気づくことはないだろうが、長男の方は間違いなく彼女のことを覚えている。

彼女が切符を買って改札をくぐる。
駅のホームに電車が到着した。

旅人算で計算すれば再会まであと10秒というところ。
しかし、彼女は子の手を引いてエレベータの乗り口に向かって左に折れて行ってしまった。

再会は果たせなかった。

が、それも示唆的なことであったのかもしれない。

もし長男が再会していたら、わたしたちは懐かしむというよりは面白おかしい風に彼女のことを話題にしたに違いない。
しかし、過去は文字通り過ぎ去って、人は変わって、過去自体もその意味を変える。

彼女はもはや面白おかしく取り上げられるような存在ではなく誰かにとっては絶世の美女のヒロインであるのかもしれず、連れ立っていた幼い子からすれば、唯一無二の母である。

長男もサルから人間へといつのまにか進化を遂げている。
もはや私たちは誰がどうだといった下世話から卒業しなければならないのだろう。

改札を挟んで長男と向かい合う。
さっきまで目にした光景については触れず、用事についてだけ話す。

間をおかず次の電車がやってくる。
面会に訪れた長男が去っていく、そんな風にその背を見つめる。

その背中はもはや8歳当時のものではない。
時間は連続し、そして、どこかでジャンプする。

次の着地点、そこで見違える何かがまた姿を現す。
子を持つ重い責任のようなものが実感として込み上がった。