KORANIKATARU

子らに語る時々日記

とっかえひっかえモノが欲しいという時期もある

明け方、外気に触れると肌寒い。
見上げるとまだらな雲。
空の紋様が季節の変化を告げている。

大陸由来、秋の高気圧のお出ましだ。
猛威をふるった夏はひっそりその気配を消していき、天高く飯が美味しく誰も彼もが肥ゆる読書の秋がもう目の前。

窓を開け放ちクルマを走らせる。
待ちに待ったこのひんやり感。
キラキラそよぐ涼風を思う存分深々と胸に吸い込む。

テレビの問題も昨日土曜に全部片付き、気分爽快。

結局時間のロスはあったものの、今回の一件によって、自身のビジュアルはともかくとして、ビジュアル機器接続とデジタル機能の便利な活用法にかなりの程度通じることができた。

われながらクイック・ラーナー。
ちょっとしたテレビ博士、我が家ビジュアル大臣と自負できるくらいの知識は備わったとも言えるだろう。

子らにそっくりそのまま伝授でき子らにも必ず必要であり有用な知識であるとも思うので、とどのつまりは怪我の功名といった類の話に落ち着いた。
雨降って地固まり、わたしたちはその恩恵に与ってスカパー推しの家族となることだろう。

そして眼鏡の問題も片付いた。

以前買ったのが二年前。
いつもなら家内に選んでもらうのだが、そのときは深く考えず道すがら自分で選んだ。

家族に不評でありあちこちで不評であったが、眼鏡で勝負する仕事ではなくまた眼鏡が似合ったところでそれで何がどうなるという訳でもなく、せっかく買ったのであるし二年はもつだろうから誰にどう言われようと使い続けることにした。

その二年が過ぎ思ったとおり眼鏡にガタがきはじめた。
フレームのコーティングがはがれ地肌に当たる部分が少しかぶれた。

もはや買い換えねばならないという話なのだが、どうにもこうにもここ最近は買い物に忌避感さえ覚えるようになってきた。
眼鏡屋に行くのも億劫であり、選ぶのも決めるのも面倒。

湧いて出るほどお金があるのでない限り、これにしようかあれにしようか目移りして迷い、これにすればどうであろうあれにすればどうであろうかとコスパを考慮し、結局、どれかを選ぶにしても、つまりはほとんどすべてを諦める、というような話であって、これは結構ストレスだ。

そんなことで消耗している暇はなく、人生もっと他に面白いことで溢れているので、だから、買い物には腰が引け、買うとなっても手間を最小限に同じようなものを最短経路で買うだけのこととなる。

眼鏡については店に行かねばならない。
家内にも一緒に来てもらう必要がある。

ぐずぐず延ばし延ばしにしていたのだが、ひょんなことがきっかけで問題が解決することになった。
次もこんな感じでいいんじゃない、と家内がわたしに差し出した眼鏡に見覚えがあった。

昔の眼鏡を家内がちゃんと保管してくれていたのだった。

試しにかけるが、とてもしっくりくる。
田中内科クリニック開院前の頃に買ったので五年以上も月日が経過しているが、ちゃんと見えて愛着さえ蘇ってくる。

いったい何でこれを買い換えようとしたのだろう。
年々ものを大事に思う気持ちが強まっているからだろう、二年前の薄情が他人事のように思える。

こういったことも子に伝えるべき部類の話であろう。

子ども時分にはモノがアイデンティティと不可分で、モノが自尊と直結し、モノへと向けられるリスペクトが自身への敬意だと取り違えるようなこともあって、モノこそが力と思う時期がある。
一種のはしかのようなものでありとっかえひっかえモノが欲しいとなる時期を経るのは避けられないことだろう。

しかし年追うごとに、モノとの関係性は変化していくようである。

誰かの視線に向けてという意識はほとんど失せて、自身の内部と直接通じ呼応する存在というのだろうか。
擬人化して接するほどの愛着の対象となっていくのが自然なことのようである。
何か縁あっての付き合い、モノに値打ちが備わるよう大事にするのがいいのだろう。