KORANIKATARU

子らに語る時々日記

時代の大きな曲がり角

生駒山麓へと向かった。
あたり一帯、駅はまばらで時間を潰せるような場所もない。
移動にクルマが欠かせない。

客先を北から南へワン・ツー・スリーと行脚する。
余裕を持って時間を組んでいるのでたいてい早くに終わって待ちが生じる。

車内で一息、水野和夫氏の「国貧論」のページをめくる。
ゆっくり秋へと向かう時期、窓を開ければ空調なしでも快適過ごせる。

流し読みするつもりがぐいぐい引き込まれた。
書いてある内容はただ事ではない。
東大阪に身をおく日常の一コマまるごと、大きな時代の転換点、その渦中にあるのだとの実感が身に迫る。

搾取するための「周辺」を拡大させ続け、周辺が尽きた後、資本主義は搾取の対象を内部に反転させた。
かつては世界の南北を対にして生じていた貧富の格差が、ひとつの国の内部に巣食うことになった。

もともと資本主義の恩恵に与れる幸運な者は世界の人口の15%と言われた。
ところが富の定員は急激に減少し、富める者はますます極端に富み、貧する者は裾野を広げながらどこまでも貧していく。

経済は成長せずパイはそのまま。
配当は増え、賃金は減る。
資産家の富は拡大し、労働者は搾取されるも同然である。

働く者の手を離れお金はお金の集まる場所へとみるみる去っていく。
富の集中が極限に達すれば、社会は秩序を保てない。

もはやいま、資本主義は行き止まりに差し掛かっている。
しかし、次に来る時代の相貌は全く見えてこない。

「より速く、より遠く、より合理的に」という資本主義の原理の正反対、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という言葉が次代のキーになると著者は言うが、近代の理念に染まり過ぎた頭には真逆に過ぎて、それがどのような世界なのか想像もできない。

次代の黎明はちょうど子らが現役バリバリの頃になるのだろうか。
そのときにはバリバリという言葉は死語になっているのかもしれない。
バリバリに代わる言葉が何なのか、わたしには皆目見当もつかない。
時代は移り変わって、それを見つけるのは子らの世代の役目となるのだろう。