KORANIKATARU

子らに語る時々日記

秋好天の日「レジリエンス入門」を読んだ

ストレスについて再考を促される喩え話であった。

キム・ギドク監督の「殺されたミンジュ」の一シーン。
主人公が言う。

ドジョウはドジョウだけの水槽に入れると早く死ぬ。
ところが同じ水槽にライギョを入れると生き延びようと懸命になって健康で長生きになる。

映画自体は、組織のコマとなって無思考に堕する人間の悲しい性とその罪深さをモチーフにしている。
おそらくは日本も近くそのようになるのであろうという、極大の格差が人間を分断している社会が背景に描かれる。
風上の側は高笑いし、風下の側はまさに貧すれば鈍す、目も当てられないような鬱屈と怨嗟に苛まれるが、奇天烈な反社会的行動以外でそれを晴らす術がない。

見ていて暗澹となるほどのリアリズムに貫かれた作品だ。
いま韓国を呑み込みつつあるグローバリズムの波濤はまもなく日本をも覆い尽くすであろうから随所に渡って示唆に富む。

ドジョウとライギョの喩えは、下々を追い詰める権力側にも存在意義があることを主人公が皮肉って口にしたものであるが、その構造は決して他人事ではなく、わたしたちすべてを取り巻いている話だとも言えるだろう。

職場でも学校でも家庭でもどこであれライギョのない水槽など見当たらず、わたしたちは大なり小なり戦々恐々とする立場に置かれている。
つまり、程度の差こそあれ、ストレスに晒されること自体からは逃れようがない。

であれば、それを負荷であると思い悩むよりは、それがあってこそより良く生きることができるのだと捉え直した方が理に適っている。

そのようなことを思っていたときに、先日の毎日新聞の書評欄で「レジリエンス入門」(内田和俊著、ちくまプリマー新書)が取り上げられていて、何か符号するようなものを感じ、アマゾンで購入した。

週末土曜日、好天に恵まれた。
心身が芯から癒されるかのような秋の涼風と陽気を堪能しつつ、移動の車中で一気に読み終えた。

レジリエンスとは、ストレスに抗する心の治癒力のこと。
まさにいまこそ焦点をあてるべきテーマであると思われた。

もはやイケイケドンドンでは立ち行かない。
そんな時代はとうに過ぎ、まだ残り火のようなものは至るところに見られるがやがては消える。
わたしたちは、自らを高め強めようとするその一方で、自らを守り庇うべきであることも知っておかねばならない。

たとえるなら、長きに渡る時代の閉塞にさらされアクセルだけのクルマが不完全であること、幸せをもたらさないかもしれないことにわれわれは思い至ったというようなものだろう。
そしていま、クルマにはハンドルが必要であり、ブレーキが必要であることをようやく理解し、誰もがその使い方を身につけなければならないと漠然と考え始めている。

そのような認識で時代を捉えたとき、まさにドンピシャ、レジリエンスは現代人不可欠の心得として位置づけられるだろう。

本書は、あとがきから読むのがいい。
本文すべてに渡って著者の良き人柄が偲ばれるとても親しみやすい筆致に貫かれているが、あとがきは更に裃を脱いだようであって、昔なじみとでもいった近しさを覚える。

著者の飾ることのない人となりを感じてから本文に入った方が、共感も得られて学びが深くなる。
そこらにあるような、上っ面だけの、勿体つけたようなテクニカルな書とは一線を画している。

全く出し惜しみがない。
著者が苦心惨憺、もがき苦しむ過程で掴み取ってきた貴重な叡智がすべて余すことなく開陳されているように思える。
是非とも伝えたい、誰かの役に立てればこんな嬉しいことはないといったシンプルな動機が行間に垣間見え、言葉に強い信頼を寄せることができる。

心のニーズ、実りある単調、完璧主義ではなく最善主義、、、
数え上げればキリがない。
本書を読めば、ことに処するうえで、なるほどと思える、考え方のちょっとした工夫や心の持ち方など、多々実用的な学びを得られるであろう。

わたしは子らにも読ませるつもりであるし、また、次世代リーダーを育てる上で常に画期的である西大和学園などに、レジリエンスを必須の素養として捉え教育講演等でぜひ取り上げてもらいたいと思う。