ちょっと気分がいい。
実際確かにそうである。
わたしが手にするのは舶来の財布。
中身はからっきしだが見栄えは上等。
その上等が似合うかどうかはさておいて、自分がひとかどの人物になったかのようであり、心なし気取った面持ちとなってしまう。
支払いに際し、財布を鞄から取り出す。
その軌道が、なぜなのだろう、少しばかり大きな弧を描く。
ああ、人のことはとやかく言えない。
わたしにだって、ミテミテと思う顕示的心根がないわけではないのだった。
そして思い知らされる。
こんな程度で晴れがましくてこれ見よがしになるなど、ああわたしは根っからの下層の民。
お里が知れるというものだろう。
ミテミテという気持ち自体が、自らが属す階層に対するコンプレックスの裏返しだ。
誇示が高じれば高じるほど下品に映るのは、ネガティブな動機に端を発する野望のようなものが透けて見えるからなのだろう。
財布を得意に思う無邪気な認知に自ら水を差す。
これは大切な財布ではあるが所詮は財布であってその気になれば誰にでも手に入る程度のものであり、そんなものをミテミテと自尊の切り札にするなどお寒いにもほどがある。
要は中身だ。
誰に見せる訳でもなく内に蓄積していく中身の方こそが自身の確かな誇りとなっていく。
つまり、財布の中身の方がはるかに大事だということであり、突き詰めれば財布などなくてもいいという話になる。
ああ、軽い財布が物悲しい。