KORANIKATARU

子らに語る時々日記

張り合ってくる人への対処法

大阪屈指の下町で生まれ育った。
先日、その近所の不動産屋に寄って耳にし驚いた。

わたしが小学生だった当時、1学年にクラスは3つあり、どのクラスも30名以上の児童がいた。

ところがいま全校合わせてものべ7人。
わたしの母校はたった7人が通う規模の小学校になっていたのだった。

隣近所の小学校も軒並み児童数が激減し、もはや学区の統廃合は不可避となった。
少子化、少子化と耳にしていたけれど、児童の棲息域は二極化しいまや下町には少子化どころか児童の過疎化といった事態が到来しているのだった。

屈強な悪童らがひしめき互いしのぎ削り合っていた故郷が静かに息を引き取りつつある。
あの活性は思い出のなかにその断片を残すのみとなっていく。

何人もの悪童の顔が浮かぶ。
誰ひとりとして腕白といった形容では収まらない。
サル、だとしか言いようがないほどの暴れん坊たちだった。

そこで平穏無事に生きていくには、嬉々として媚び悪童を称えるか、力の均衡を保つため自らを強くするしかなかった。
もちろん媚びようが諂おうが場合によっては蹴られて殴られる。

平和への最短距離は武装化による力の均衡。
わたしたちは小学生のときに実地でその真実を学んだのだった。

町の四つ角、二人の少年サルが行き違う。
目が合って火花散る。
互いに威嚇的態度で力を顕示しつつ、同時に相手の強さを推し量る。

手強い、そう判断されれば暴力沙汰が回避される。
ぱっと見て弱ければ、屈辱の回数を正の字で数える無念の日々を余儀なくされる。

生存競争に勝ち抜くためには、相手より優位に立たねばならない。
少なくとも拮抗しなければならない。
太古から宿命づけられた生命体の定めのようなものであり、そこから自由になるのは簡単なことではない。

だから大人になっても形を変えて、サル的示威行為は残存していくことになる。

何年も前のこと、ヤンキー率いる会社に関わることがあった。
会社トップを筆頭にキンキンギラギラであった。

時計にスーツにバッグに靴そして車。
その会社においては、モノが人物の格を表す。
モノがまさにもの言う世界、モノが各者の力を表示しているのだった。

男性だけでなく茶髪の女子職員らも同様で、舶来のバッグや高価な時計をいったいどのように調達するのか不思議ではあったが日常使いにし持ち歩いていた。

わたしはそういったモノの世界に疎かったので、キンキンギラギラの顕示による威圧を覚えることはなかったが、その文脈に沿う価値観の者らはそれらモノどもによってたやすく心理的なアドバンテージを取られたであろうに違いない。

そしてここまで考え合点がいった。
最近何かが心に引っかかってモヤモヤしていた。

ああなるほど。

要は喧嘩を売られていたようなことであったのだ。
間接的にであれ、こっちに張り合ってくるような、上からかぶさってくるような顕示的な態度と言動がなされたことは確かなことだった。

標的にされるのでなければ誰がどうであろうと構いやしない。
が、あんたよりこっちが上だと主張せんがための、見せつけるようなあるいは聞こえよがしな顕示は、持って回った当てこすりのようなものであって、いちいちが鬱陶しい。

そもそも顕示は優位性を見せつけるためにする太古の昔からの定石である。
一種の威嚇であるから、その対象にされた場合、誰であっても不快を感じるし、繊細な人であれば傷つくこともあるだろう。

たとえば小学生の頃の小林くん。
家は百坪、車は外車、パパは京大、ママ美人、算数満点、走れば俊足、男前。
黙っていれば崇拝の対象となるグレート小林くんも、ことあるごとにそれらひけらかせば、やがては衆目一致で呪われる。

そのようなことである。

プリミティブなメンタリティに起因しての不快であるのだとそのメカニズムさえ分かればモヤモヤも大半が晴れて、解決したも同然となる。

あとは労力極小の対応をルーティンのように回すのみ。
互い張り合うのは消耗戦となって益がない。
ここはもうひとつの選択肢、嬉々として褒め称える、というのが最良であろう。

得意満面自信満々、こっちの勝ちだと乗っかってこられたら気持ちのいいものではないが、そこをあえてこらえて敗れるに任せて相手を褒めてみる。

そう徹すれば、いつか褒め称えの呼応が起こって、調和が生まれることもあるだろう。

例えば、SNSなどその例と言えるかもしれない。
まるでかわいい小鳥たちがさえずり合ってコーラスするみたいに、互い賛辞送り合う互助会のような仕組みが成り立っている。

あの好循環はひとつのお手本と言えるだろう。
コツはただひとつ。
疎ましくとも手放し褒めればすべて丸く収まる。

昔の人はほんとうにいいこと言った。
負けるが勝ちであり、金持ち喧嘩せず。

結局今日も昨日と同じ結論に達したようである。