「原因と結果の法則」を読んだのはいつ頃のことだっただろうか。
名著だと聞いて手に取ったのであったが、特に感銘を受けることもなく手応えのないような読書で終わった。
だから内容もあまり覚えていない。
原因があって結果がある、そんな当たり前すぎる話であったという記憶くらいしかない。
しかし不思議なことである。
読了後かなりの年月を経て、このところやたらと「原因と結果」という言葉が頭に浮かぶ。
思春期を経てまもなく青年へと差し掛かる息子が2人いる。
息子らとの対話を見越してものを考える際、どうしても「原因と結果」という観点が必須であって欠かせない。
当たり前に過ぎると読み流した青二才のわたしは迂闊であった。
もっと早くから「原因と結果」という観点の重さを踏まえて物事に処するべきであったように思う。
いまになって子らに言う。
原因があって結果がある。
わたしたちの日常は、わたしたちの行動と言動の反作用として織り成されている。
だから日常の景色を変えようとすれば、自身の行動と言動、つまり心がけを変えるところから始めねばならない。
つまり、心を変えてはじめて世界が変わる。
人に優しくしてほしければ人に優しくすることから始めねばならず、信頼を得るには信頼に足る者であるよう心せねばならず、尊重されたければそれに値する功徳を日々積み重ねばならない。
文句を言っても始まらず、注文つけても世界は微動だにしない。
自らがその原因となるよう第一歩を踏み出すことでしか変化は起きない。
畏れをもって受け止めるべき厳粛な話であって、テクニカルな話や皮相な因果論とは次元を異にする話である。
だいたい因果論など後付けの要素が多すぎて眉唾の標本市のようなものである。
安易に真に受けるようなことではないし、鵜呑みにすれば一杯食わされることもある。
世界は確率と偶然によって生成されるカオスであって、人知でその全貌を捉えることなどできやしない。
まずはそう心得ることが謙虚であって正しい姿勢であるだろう。
前提としてはすべてが確率。
今日街角で誰かとばったり出くわしたのは、必然や何かの思し召しなどではなく、単なる偶然。
確率ゼロの方が珍しく、世では何が起こっても不思議はない。
そうと分かったうえであえてこの偶然の世界のなかで一本筋の通った主体性を引き受ける。
結果には直接手出しはできないが、誰であれ原因には直に働きかけることができる。
原因に焦点を当てること。
そう腹を括ることが肝心なのであると遠い昔に読んだ「原因と結果の法則」が今になって語りかけてくれているように思える。