KORANIKATARU

子らに語る時々日記

父親というひとつのサンプル

近場に直行する用事があったので朝の時間を家で過ごした。

わたしが先陣切って家を出るのが常日頃であるが、この日はわたしが子らを見送った。
ここ数日、遅い帰りの日が続き子らと話す時間が取れていない。

せっかくなので身支度する子らの周辺をうろついて会話する。

彼らもわたしに用があるようだった。
ここぞとばかりいろいろとご入用だとの話を切り出してくる。

部活の合宿費や遠方での課外活動に先立つものが必要で春になれば塾代もまた割増となる。

まさに身を切ってこその子育てである。
月謝払うだけで済むような話ではなく、あらゆる場面場面で出費が生じて油断も隙もない。

結構かさむがしかし子らについてする出費を惜しいと思ったことは一度もない。
ほんの数分差でコインパークの払いが増えて地団駄踏むことはあっても、子らについてはそんな瑣末な損得勘定の出る幕がない。

子に使う以上に有用な使い途などない、そう確信があって迷いもない。

自分がいい思いするより、子らがいい経験した方が遥かに嬉しい。
親なら誰だってそうだろう。

この春も各々家を留守にする我が家男子らであるが、濃密な時間を過ごす彼らの春に勝るものはない。
ささやかながら父として応援できることが喜びだ。

そんなことをぼんやり考えながら川西方面へとクルマを走らせふと思った。
いまわたしが十代でもう一度人生をやり直せるとしたらどうするか。

男同士向き合ったとき、彼らがもっとも聞きたいのはそういったことであるような気がする。

わたしは彼らに言うのだろう。
いまのわたしのこの地点、ここにまたたどり着く人生を目標にする。

春間近の朝の街路を鼻歌まじりにドライブし、家族について思うことのできる人生。

大波小波でハプニングが生じトラブル絶えない日常ではあるが、家族とともにあれば、それもまた暮らしの味わいを深めるスパイスのようなものであって不可欠、なければむしろ味気ないようなものだろう。

だから十代からやり直せるのだとしたら、今回の人生でひしと痛感した徒労の部分をショートカットする工夫を凝らすだろう。

理系を選ばずそもそもの初めから文系であっても良かったであろうし、勤め人時代をもっとコンパクトに切り上げさっさと独立してしまうのでも良かっただろうなど、振り返れば無為な停滞期が随所に見い出せる。

そういった余計なプロセスを端折れば、もっと早くに、いまここに到達できて、もっと長く深く充実感を味わえただろう。

川西市の奥まった住宅街。
用事を終え先様から台湾からのものだとの土産をもらい、自宅へと引き返す。

このあと神戸の役所で済ませる用事は家内に任せることにする。
家内は神戸で過ごして楽しく、わたしは時間が空いて気が楽だ。

このように今日も無事業務を終え、日記を書いてまもなく帰り支度に取り掛かる。

小さいながらも日々の勤めを果たし、小さいながらも日々の充実を味わう。
こんな程度が幸せであれば案外目指すゴールは近いのだと、ひとつのサンプルとして子らには参考にしてもらいたい。