毎日新聞のコラムに40歳を過ぎたいまも亡き母に追いかけられる夢をみるという話が載っていた。
計算や漢字ドリルをやらされ間違うと手を上げられ、逃げたところで逃げ場はなく、捕まっては余計に叩かれるという恐怖の子ども時代であったというから不憫な話だ。
母親が暴力振るうのだから、この世に安住の地がないも同然である。
想像するだけで暗い気持ちになる。
ただ、この種の虐待は巷に溢れているのだろうとも思える。
誰かに話してそれがバレれば、母親から大目玉食らうのが目に見えている。
だから、喉元まで出かかっても、押し黙るしかない。
大半の子はそうやって耐えているに違いない。
周囲見渡せば、誰にでも心当たりの一つや二つは容易に見つかるのではないだろうか。
わたしでさえ思い当たる。
一人の母親が頭に浮かんでくる。
見る人が見れば一目瞭然、虚飾の人。
内と外とでまるで別人。
連続性が全くないので、日本昔話の山姥でさえ顔負け、猟奇の度合いでその母親が上回る。
表面上は子煩悩で実に優しく思いやりある風に見える。
が、ドアが閉まれば豹変する。
その落差が極端で、恐怖を通り越し子ども達は一瞬笑ってしまうが、直後そのままの顔かたちで凍りつくことになる。
罵詈雑言がエスカレートしいつまでも止まらず、しまいには暴れだし、もはや泣いて詫ても許してもらえない。
その様子は躾けといった範疇を通り越し、癇癪を起こしているようにしか見えない。
癇癪の原因は突き詰めれば一点。
「ひと様に対し、みっともない、かっこつかない」
それでそこまで怒るのかと思うが、そもそもが虚飾の人。
どう思われるかだけが、この世のすべてなのである。
その母親にとって世界は、他者の視線によって構成される舞台そのもの。
どう映るかだけが肝心であり、子どもたちは母親が思い描く他者の尺度にもとづいて、その行動の是非を厳しく問い質されることになる。
一言にすれば、絶対的な見映え主義。
だから当然、視線にさらされる薄皮一枚に全ての資源が注ぎ込まれる。
一皮めくれば、ハリボテ素寒貧であっても一向に構わない。
生活の内容や実質など二の次三の次。
他所様にいいように映れば本願成就。
薄っぺらな価値観にひれ伏さねばならない子どもたちを思えば気の毒とも思えるが、子の力では如何ともしがたく、誰かが口を挟めば大きなお世話にもほどがあるという話になる。
世間体を過度に気にするメンタリティの背景には根強い劣等感が巣食っているとみて間違いない。
自身で築き上げた価値の世界があれば、薄皮一枚を頼みとすることはないし、自身を練磨してきた人であれば他人にどう映るかなんて取るに足りないことだと骨身に沁みて理解している。
第一、他人だって忙しく、いちいちこっちのことなど頭にない。
だから薄皮などが役立つことはないし、どう思われるかを気にしても始まらない。
芯があれば、そういう本質にも気付くことができる。
努力のない人には価値観がない。
だから実体不明の世間体に主導権を握られる。
そういうことなのだろうと思う。
女房にするなら、努力してきた人である方がいいだろう。
そのような人であれば玉石混交の価値観の防波堤となることができ、また間違いなく、子どもたちが独自の価値観をスムーズに見い出せるよう、生活の実質と子ども達の経験の充実を最優先させるはずである。